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 「人類の進歩と調和」をテーマに開幕した日本万国博覧会。大阪・千里丘陵には117のパビリオンが並び、原発からの電気が供給された=1970年

「すべての検査が完了しました」―。1970年3月14日午前4時、福井県敦賀半島の先端に立つ日本原子力発電敦賀原発1号機の中央制御室。通商産業省(当時)の検査官の声が響いた。試運転の最終関門、100時間連続運転を無事に終え、営業運転が始まった瞬間だった。

 「バンザイ!バンザイ!」。室内に集まった幹部、部屋に入りきれずに廊下から窓ガラス越しに見つめる若手社員の顔は上気し、涙を流す者も。

 国内初の商業用軽水炉から生み出された電気は、その数時間後に開幕する日本万国博覧会の会場、大阪の千里丘陵に向け送られ、会場には「原子力の灯が届いた」とのアナウンスが響いた。

「原子の灯」

 47カ月という工事期間は記録的なスピードとされ、世界から注目されたという。ある日本原電OBは「建設当初から狙っていたわけじゃないけど(万博開幕に)間に合うのならぜひとも、という雰囲気だった」と話す。

 同年8月には試運転中の関西電力美浜原発1号機も万博に送電。万博が描く近未来を支えるエネルギーとして「祝祭を照らす原子の灯」のイメージが作られていった。

 日本原電の副社長を務めた浜崎一成は当時、現場を取り仕切る発電課長だった。「そりゃあ感動した。日本の先駆けになったんだから」。原発を動かす「ターンキー」のレプリカを持った写真を今も大切に保管している。

 中央制御室のにぎわいが一段落すると、浜崎は外へ出た。目の前に広がる敦賀湾の水面が、夜明けとともに明るくなっていく。「俺はこの日を一生忘れない」と心に刻み込んだ。その後、NHKが万博会場と敦賀原発を結んで中継し、インタビューも受けた。

落第

 だが営業運転を始めた敦賀1号機からは70年度に、希ガスやヨウ素など4800テラベクレル(テラは1兆)もの放射性物質が放出されたことが後に日本原電の調査で判明。周辺住民の被ばくが年間50マイクロシーベルトを超えないよう国の指針に基づいて定められた管理目標値を超えたことが分かった。

 「敦賀市にとってバラ色だったのは、万博に原子炉の灯を送るまで」と当時、敦賀市議だった吉村清が言う。

 浜崎も「今の基準からみれば、敦賀1号機は落第だ」と断言する。

 米国側は日本に原発を売り込む際、「プルーブン(実証済み)な技術だ」と強調していた。しかし実際は大違い。冷却水やガスから放射性物質をこし取るフィルターが目詰まりを繰り返し、配管や機器の割れが相次いだ。日本原電は100億円近く投資し、浄化設備などを整備。「実証するのに10年近くかかった。運転開始の感動より、その後の苦労の方が思い出深い」と浜崎。

 地元の敦賀市議会が原発誘致を決議したのは62年9月。日本原電が当初立地を目指した同県川西町(現福井市)に固い地盤がなかったため、敦賀市が手を挙げた形だ。

 出席議員24人のうち4人が棄権し退場、残る20人で誘致を決議した。吉村は退場議員の一人だ。「必ずしも反対ではなかった。誘致までするものではないだろうという気持ちだった」と明かす。

 科学技術庁(当時)も日本原電も「放射能は一滴も漏らさない」と明言していたからだ。

もう一つの博覧会

 99年夏、敦賀港の開港100年を祝う「つるが・きらめきみなと博21」が開かれた。敦賀原発1号機の初臨界から30年の節目。会場には電力会社による「エネルギー館」や科技庁のパビリオンも設けられた。

 だが、開幕の6日前に敦賀原発2号機で、51トンの1次冷却水が漏れる事故が発生。放射性物質の外部放出はなかったものの、再び演出された「原子力と祝祭」にトラブルが暗い影を投げかけた。

 電力業界は風評被害による観客数の減少を懸念。「各電力に博覧会に行くようにとの動員要請がかけられた」とある電力会社の幹部は明かす。「つくられた祝祭」の姿がここにもあった。(新居一樹、敬称略)=2011年10月21日

原子力を巡る主な出来事
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日本を創る 連載企画原発編 原発と国家

①原発と国家

第1部「安全幻影」
第2部「『立地』の迷路」
第3部「電力改革の攻防」
第4部「『電力』の覇権」
第5部「原子力の戦後史」
第6部「原子力マネー」
番外編・原子力の戦後史を聞く
第7部「原子力人脈」
第8部「漂流する原子力」
番外編・アトムの涙 手塚治虫が込めた思い

②復興への道

第1部「漂う人びと」
番外編・専門家に聞く
第2部「再建のハードル」
第3部「地方のスクラム」
第4部「海外の被災地」

③インタビュー

震災と文明
震災後論
海外の原発政策
震災後論②
震災後論③
震災後論④