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日本原燃の使用済み核燃料再処理工場=2008年5月、青森県六ケ所村,メディア対策

 元広島テレビ放送報道制作局長の吉村淳は、広島市中区の本社に中国電力の数人の幹部が訪れた1993年の夏を今でも覚えている。「内容が一方的じゃないですか。どうしてこんな番組を放送したのか」。詰め寄られて切り返した。「どこが問題ですか」

 抗議を受けたのは92~93年に全国放送したドキュメンタリー3部作「プルトニウム元年」。
 プルトニウムは核兵器の原料にもなり、保有が国際的な監視下にある核物質。番組は、日本の原発の使用済み燃料を再処理してプルトニウムを取り出す英仏の工場や周辺住民を被爆地の視点で取り上げた。

勉強会

 建設を控えた青森県六ケ所村の初の再処理施設の是非も問い、反響は大きかった。93年に「『地方の時代』映像祭グランプリ」を受賞した。

 吉村によると、中国電は放送後に「電気料金値上げに伴う広告予算カット」によりスポーツ番組のスポンサーを降りた。95年春には吉村以下、制作の中心だった局次長、プロデューサー、ディレクターの4人が営業局へ異動した。

 「理由は分からない。われわれはジャーナリストであると同時にサラリーマンでもある。引き際だったんだよ」と吉村。

 2008年、試運転が始まっていた六ケ所村の再処理工場に、毎日放送(大阪)のテレビクルーの姿があった。10月、「なぜ警告を続けるのか~京大原子炉実験所〝異端〟の研究者たち~」として深夜放送された。

 実験所の助教として原発の危険性を訴え続けていた小出裕章と今中哲二に光を当てた。放送終了後、制作者側に「原子力が分かっていない。反原発に大甘だ」とする関西電力側の反応が伝わった。

 「意見や感想を言ったことはあるが抗議はしていない」とする関電。ただ、放送後に「毎日放送の依頼を受けて」(関電)、関電社員を講師に原子力の安全性に関する勉強会が開かれていた。

意見広告

 電力によるメディア対策が本格化するのは、原発立地が進むとともに、反対運動も生まれた70年代以降だ。報道機関はトラブルのたびに原発の安全性に関して追及、電力側は対応に追われた。

 東京電力社長の木川田一隆は71年、元経済誌編集長の鈴木建を業界団体の電気事業連合会(電事連)の広報部長に送り込んだ。鈴木の自著によれば、原発のPRに利用できるメディアは当時主に週刊誌や経済誌だった。

 「新聞やテレビなどの媒体はアレルギーが強かった」が、朝日新聞に74年、国の事業委託や電力会社の賛助金などを受け活動する「日本原子力文化振興財団」の意見広告が掲載される。「放射能は、環境にどんな影響を与えるか」との見出しで放射線医学の専門家が登場した。

 「原子力の広報は単なるPR費ではなく原発建設費の一部」と鈴木。経済部で電力担当だった朝日新聞OB志村嘉一郎は「オイルショックで景気が悪かった。鈴木は、今度朝日に広告が出るぞと喜んでいた」と話す。意見広告は読売新聞などほかの全国紙にも広がる。

 86年に発生した旧ソ連のチェルノブイリ事故は、食品汚染への不安から主婦や若者を原発反対に向かわせ、推進側のメディア対策も呼応するように練り上げられていく。

 「制作現場の人間とのロビーづくりを考える。特定のテレビ局をシンパにするだけでも大きい意味がある」「逆境の時こそマスコミにアプローチするチャンス」。科学技術庁(当時)の委託で財団が91年にまとめた報告書「原子力PA方策の考え方」は赤裸々につづる。

 電力10社の有価証券報告書によると、マスコミ広告費のほか原発のPR施設の運営費などの経費も加えた「普及開発関係費」は、10年度だけで計約866億円にのぼる。電事連の広告宣伝費は、過去5年平均で年約20億円という。(敬称略)(石川太一、真下周、山内和博)

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日本を創る 連載企画原発編 原発と国家

①原発と国家

第1部「安全幻影」
第2部「『立地』の迷路」
第3部「電力改革の攻防」
第4部「『電力』の覇権」
第5部「原子力の戦後史」
第6部「原子力マネー」
番外編・原子力の戦後史を聞く
第7部「原子力人脈」
第8部「漂流する原子力」
番外編・アトムの涙 手塚治虫が込めた思い

②復興への道

第1部「漂う人びと」
番外編・専門家に聞く
第2部「再建のハードル」
第3部「地方のスクラム」
第4部「海外の被災地」

③インタビュー

震災と文明
震災後論
海外の原発政策
震災後論②
震災後論③
震災後論④