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【ロングストーリー~「どう生きる」2人の自問】「捜す」最後の1人まで/「原発安全」痛恨のうそ 

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【ロングストーリー~「どう生きる」2人の自問】「捜す」最後の1人まで/「原発安全」痛恨のうそ 

当時の東京電力社長(左)と避難所で正座し、住民に謝罪する石崎芳行さん=2011年4月22日、福島県郡山市

【ロングストーリー~「どう生きる」2人の自問】「捜す」最後の1人まで/「原発安全」痛恨のうそ 

「死ぬまで福島と向き合う」と話す石崎芳行さん=福島県楢葉町のJヴィレッジ

【ロングストーリー~「どう生きる」2人の自問】「捜す」最後の1人まで/「原発安全」痛恨のうそ 

捜索の合間に長男倖太郎ちゃんのこいのぼりを揚げる上野敬幸さんと妻貴保さん(奥)=2011年4月28日、福島県南相馬市

【ロングストーリー~「どう生きる」2人の自問】「捜す」最後の1人まで/「原発安全」痛恨のうそ 

思い出が詰まった旧宅の前で笑顔を見せる(右から)上野敬幸さん、次女倖吏生ちゃん、妻貴保さん。珍しく雪が積もった=1月30日、福島県南相馬市

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故がなければ、2人が出会うことはなかっただろう。津波で両親と2児を亡くした福島県南相馬市の 上野 (うえの) 敬幸 (たかゆき) さん(43)と、東京電力副社長の 石崎芳行 (いしざき・よしゆき) さん(62)。津波と原発の地で、人生が交錯した2人の震災5年をたどる。(文中敬称略)

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 家並みと木々が流され、1キロ先の海が見通せる。誰もいない。誰も来ない。静寂の中、農家の長男だった上野は消防団の仲間と行方不明者を捜し続けていた。

 第1原発から北に22キロ、南相馬市の 萱浜 (かいばま) と呼ばれる地区。2011年3月11日、大地震の後、津波に襲われた。そして原発事故発生。自衛隊や警察、消防による救助捜索活動は一切行われなかった。

 地獄だった。ぬかるみの中やがれきの下に、よく見知った隣近所の顔がいくつもあった。一人一人亡きがらを抱き上げ、集会所に安置した。13日、自宅裏で8歳の長女 永吏可 (えりか) を見つけた。60歳の母 順子 (じゅんこ) は既に安置所に運ばれていた。

 63歳の父 喜久蔵 (きくぞう) と3歳の長男 倖太郎 (こうたろう) が見つからない。ほかにも不明者がいる。仲間と捜し続けた。ただ一心不乱に。

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 地震発生時、石崎は東京・内幸町の東電本店にいた。激しい揺れ、第1原発から刻々伝わるただならぬ状況。事務系ながら前年まで隣接する福島第2原発の所長を務めた。周辺の地域に明るく、知人も多い。

 社長に同行し、原発周辺住民が身を寄せた避難所を回った。罵声を浴び、ひたすら土下座した。

 所長時代、見学に招いた地元の人に「原発は絶対安全です。災害の際は、ここへ避難してください」と説いた。電力マンとして信じ切っていた。

 「だましやがったな」。寒い避難所で、旧知の住民たちが怒りの目を向けてきた。そう、結果的に自分はうそをついたのだ。痛恨の極み。想像力に欠けた会社と自分を恥じた。この事故からは絶対に逃れられない。石崎は覚悟を決めた。

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 被災時、上野の妻 貴保 (きほ) (39)は第3子を妊娠していた。放射能の影響を案じ、茨城県の親戚宅に避難した。永吏可の火葬には立ち会えなかった。

 百か日が過ぎたころ、上野にふつふつと怒りが湧いてきた。津波で死んだのは仕方がないとして、母親が娘の弔いもできない原発事故って、一体なんなんだ。捜索隊がすぐ入れば、助かる命がいくつもあったはずだ。

 市役所の災害対策本部にいた東電の男性社員にぶちまけた。「おまえらのせいで、とんでもない目に遭っている。20キロ圏内で不明者を捜せ! 死んだ人に謝れ!」

 その社員は、萱浜にいくつもある祭壇に線香を上げて回るようになった。遠くから上野は黙って見て
いた。毎朝毎朝、社員は手を合わせに来た。

 いつしか上野の心持ちが移ろい始めた。東電のことは憎くて憎くて仕方がない。でも人を憎んでいるわけじゃない、と。

 その社員と言葉を交わすようになった。「東電には言いたいことがいっぱいある。社長とか偉い人を連れてきてほしい」と頼んだ。

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 石崎は東京出身だが、母は会津生まれ。内務省の役人だった父は戦後、原子力産業関連団体の幹部を務めた。よくよく福島と原発に縁がある。

 13年1月、東電の新たな社内組織、福島復興本社の代表に就いた。賠償や地域の除染、避難住民宅の清掃、草刈りなど復興にまつわるさまざまなことを業務とする社員2千人のトップだ。

 3月、石崎は上野を初めて訪ねた。津波と原発事故から丸2年が過ぎてすぐの日曜だった。

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 石崎が差し出した名刺を、上野は鬼気迫る形相で即座に投げ捨てた。

 「家族に先に謝ってくれ」。津波で1階が大破した上野の旧自宅玄関は、両親や永吏可、倖太郎の写真、おもちゃを飾った祭壇になっている。石崎は目をつむり、じっと手を合わせた。

 旧宅のすぐ隣に建てたばかりの家へ場を移した。上野が全身をぶるぶる震わせながら叫んだ。

 原発事故のせいで捜索隊は全く来なかった。仲間と遺体を収容し続けた。息子やおやじ、ほかにも不明者がいて、今も捜している。嫁はわが子の骨も拾えなかった。こんな非道なことが許されるのか。置いてけぼりにされた悔しさが分かるか。

 正座し、時におでこを床にこすりつけ、石崎は聞くしかなかった。原発事故がもたらした極限の痛みに、ただ絶句した。

 最後に上野が言った。「あなたがこれからどう生きるか、俺はずっと見ています」。言葉が石崎の胸に刻まれた。

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 一緒に捜索を続けた上野たち消防団仲間に、次第に遠来のボランティアが加わり、 福興浜団 (ふっこうはまだん) というグループに進化した。震災の年から、夏には花火大会、春には菜の花畑の迷路を作り、子どもたちを楽しませる。

 合言葉は「みんなで笑い合えるところに」。涙がたくさん流れた地を、笑顔で再生したい。地上にいる俺たちが笑えば、天国のみんなが安心してくれるだろう。人を寄せ付けない険しさがあった上野の顔は、月日とともに穏やかになった。

 不明者捜索は南相馬だけでなく第1原発周辺の町にも範囲を広げた。骨のひとかけらでも見つけようと砂浜やがれき置き場を掘り返し、消波ブロックの間を見て回る。最後の1人まで見つける。それが生かされた者の義務だと上野は言う。

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 上野と会って3年。石崎は青い東電の作業服を常に着て、福島県内を走り回ってきた。被災者の集まり、町や村の催し、農漁業や自治体関係者との会合。呼ばれれば、どこへでも顔を出す。

 あれだけの事故を起こして、一生許されるはずはない。それでも「東電です」と正々堂々名乗り、人々の訴えに耳を傾けよう。そうすればやるべきことが見えてくる。

 「これが天命。逃げたら地獄に落ちるでしょう。会社を辞めても、死ぬまで福島と向き合います」と石崎。

 上野に頼まれれば、捜索用に重機を工面する。福興浜団の活動に自主参加する社員もいる。憎しみから始まった交わりは、互いを敬い、いたわり合う間柄になった。

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 震災5年を前に、上野は少し元気がない。ずっと残してきた旧宅を解体すると決めたからだ。津波被
災家屋の解体費用を助成する市の制度が3月末で終わるため、1千万円以上の工費を自腹では出せないと判断した。

 永吏可と倖太郎の思い出が詰まった家。2階奥の永吏可の部屋は手を付けられずにいた。遺品を整理し、家は少しずつ壊してもらおうと思う。

 子どもを津波から守れなかった自責の念が薄れることは、一生ない。ただ震災の年に生まれ、上の2人の名前から一文字ずつ取った次女の 倖吏生 (さりい) (4)には、おやじから受け継いだ土地をちゃんと残してやりたい。

 きちんと生きて、寿命が来たらそっちへ行くから。上野は早春の青い空を見上げた。

▼津波と原発事故
 津波と原発事故 東京電力福島第1原発事故の避難指示に伴い、半径20キロ内外の福島県南相馬市や浪江、双葉、大熊、富岡、楢葉の各町では、津波に巻き込まれた人の救助捜索や遺体収容が震災発生から約1カ月行われなかった。地元消防団員は「政府の避難指示が出た2011年3月11~12日の夜、うめき声や助けを求める声が暗闇からいくつも聞こえた」と証言。生存者が放置され亡くなった可能性があるが、詳しい実態は分かっていない。浪江町の遺族約370人は東電に精神的被害の賠償を求め、13年に裁判外紛争解決手続き(ADR)で和解した。(文 高橋宏一郎)=2016年2月8日

(共同通信)