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戦後70年

【核70年の黙示録】(3)「沖縄とキューバ危機(下)」  脳裏よぎった文明の破滅 誤った発射命令、現場混乱 「核戦争防いだのは運」 

 「大統領の演説中はまるで教会のような静けさだった。テレビの前には200人ほどの人だかりができ、演説後は誰も口を利かなくなった。皆ぼうぜんとし、ショックを受けていた」

 1962年10月23日朝、沖縄の米軍嘉手納基地。第873戦術ミサイル中隊の技師ジョン・ボードン(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー在住=が見詰めるブラウン管には、険しい表情をした米大統領ジョン・F・ケネディの姿があった。

 ケネディは日付がまだ22日のホワイトハウスから米国民にこう訴えた。「『とらわれの島』で攻撃用ミサイル基地建設の事実が判明した。目的は西半球を核攻撃する能力構築以外にあり得ない」

 ケネディはソ連がキューバに核搭載用の中距離ミサイルを配備したと糾弾し、演説を続けた。「一体どれだけのコストと死傷者が出るのか、予測もできない。犠牲と自制の歳月が待ち構えている。しかし最大の危険は何も行動しないことだ」

 ▽両親に疎開促す

 キューバへの空爆を検討していたケネディは演説で、国民に有事への覚悟と忍耐を求めた。ボードンはじめ、沖縄で核巡航ミサイル・メースBの運用を担当する米兵の脳裏には、米ソ核戦争のシナリオがよぎった。
 「とても不安になった。(出身州の米東部)ニュージャージーにいる家族や友人が心配で…」。それまで淡々と証言していたボードンが突如、言葉を詰まらせ、目にうっすら涙を浮かべた。

 大統領演説の前からキューバ情勢をめぐる機密情報に接していたボードンは両親に国際電話をかけ、自宅から南部のノースカロライナ州に疎開するよう促した。だが機密漏えいは法に触れるため、ニューヨークがソ連の核攻撃対象であり、核交戦になれば実家も被害に遭うことは、肉親にさえ伝えられなかった。

 ▽戦争の一歩手前

 ボードン同様、沖縄・読谷村のメースB発射基地に 技師として勤務した ビル・ホーン(71)=テネシー州クックビル在住=も大統領演説を聞き「もう二度と家には帰れないと思った。平和は終わり戦争が起きると皆考えていた。文明が完全なる破滅に最も近づいた瞬間だった」。

 そして大統領演説から間もない10月24日、事態は緊迫の度合いを一気に増す。核戦争時の司令塔となる戦略空軍が 「デフコン(防衛準備態勢)」を3から準戦時の2 に引き上げたのだ 。

 「デフコン2は非常に憂慮すべき事態だ。なぜならデフコン1は全面戦争を意味するから。2は戦争の一歩手前だ」
 沖縄・恩納村のメースB発射基地に配属されていた ラリー・へーブマン(73)=ネバダ州スパークス在住=はこう回想し、「核ミサイルがすべて発射されれば、地球には物も人もほぼ何も残らない。今でもぞっとする」と言葉を継いだ。
 デフコン2の発令により、米軍の核部隊は15分で戦闘可能となった。

 ▽現存する脅威

 悪いことが続いた。10月27日、キューバ上空を飛行中の米U2偵察機が撃墜、緊張状態は頂点に達した。そして直後に、読谷村のメースB発射基地で異変が起きる。

 ボードンの証言と未出版の回想録によると、28日未明、発射基地地下にある発射管制室の無線が鳴った。「オー・マイ・ゴッド…」。同僚が叫ぶと、室内は騒然となる。

 嘉手納のミサイル運用センターから発射命令が届いたのだ。技師、副官、発射指揮官の順で3段階にわたり、送られてきた暗号が各自にあらかじめ与えられていた暗号と合うかどうか照合した結果、すべてが一致した。

 「しかし、標的情報を読み上げたら(自分が担当する計4基の)ミサイルのうち1基だけがソ連向け。残り3基は別の国を狙えとあった。なぜ関係ない国を巻き込むのか。何かおかしいということになり、発射指揮官が『命令の真偽を見極めよう』と言い出した」

 ボードンはこう語り、理由は分からないが、発射命令が間違って伝達されていたと明言した。沖縄にある他の三つの発射基地にも誤った命令が同時に出されていた。

 ボードンは「別の国」を明らかにしないが、約2200キロ超の射程から、中国とみられる。

 当時の国防長官ロバート・マクナマラは生前こんな言葉を残している。

 「核戦争を防いだのは運だった。ケネディと(ソ連最高指導者の)フルシチョフ、(キューバ指導者の)カストロは理性的だった。そんな理性的な人々が自分たちの社会を完全破壊する寸前にいた。脅威は今も存在する」

 ▽ 現代に重大な教訓 サイバー、偶発使用の脅威 

 1962年のキューバ危機時に沖縄の核ミサイルが発射寸前の状態にあった事実は、約1万6千発の核兵器が現存する今日にも重大な教訓を突きつけている。それは偶発的核使用の恐れがゼロではないという現実だ。核保有国の核兵器統制システムがサイバーテロの標的となるリスクもある。

 危機当時、沖縄のメースB発射基地に配属されていたラリー・ヘーブマンはこう語る。「ミサイル発射のために沖縄にいた。撃てと命じられていたら、そうしていただろう」。命令に背くと軍法会議にかけられ、厳罰に処せられる下士官兵には他に選択肢がない。

 別の証言者ビル・ホーンは「(核兵器の管理システム自体に)大きな誤りがある。気の狂った発射指揮官がいて『戦争を始めよう』といい出したら(偶発的核戦争が)起こり得る」と言明。ジョン・ボードンも発射担当者が「ならず者化」する危険性に警鐘を鳴らす。

 テロリストがチェック体制をくぐり抜け入隊し、核兵器運用に携わる仕事に就かないとの保証はない。
 「核のボタン」を握る政治指導者と連絡が取れなくなる有事に備え、軍部に核使用の限定的な裁量が今なお認められている可能性がある。米国のみならずロシアや英国、パキスタンなどにも通底する問題だ。(敬称略)

 ◎デフコン

 デフコン 米軍の各部隊が取る防衛準備態勢で、最高度の1から5までの5段階。1は敵の侵略や攻撃準備を受け、戦争突入へ向けた極度に高い準備態勢で、核兵器での反撃も想定している。2は準戦時態勢を意味し、1962年10月のキューバ危機時に戦略空軍(現在の戦略軍)がこの態勢を取った。これまで1に引き上げられたことは一度もない。

(共同通信編集委員 太田昌克、敬称略)=2015年03月28日
 

潑剌としたジャガイモ顔 一人一人が主人公の時代 吉岡忍

 戦後70年である。共同通信社と全国の新聞社が所蔵する報道写真を基に、戦後日本の歩みを再構成したシリーズ「ザ・クロニクル」が刊行中だ。1945年から5年ごとを1巻にまとめているので、全部で14巻。その第5巻、高度成長と若者の反乱がつづいていた69年までが手元にある。

 第1巻「廃墟からの出発」の表紙は、広島の原爆ドームを背に走る幼児の写真。第2巻「平和への試練」では、サンフランシスコ講和条約調印でにぎわう東京・銀座で女子高生らが花を配っている。第3巻「豊かさを求めて」になると、電線だらけの街の向こうに建設中の東京タワーの脚部が見えてくる。第4巻「熱気の中で」とは、東京五輪開催の熱狂だ。第5巻「反抗と模索と」では、早くも戦後の世の中に疑義を唱える学生たちが、東大安田講堂に立てこもろうとしている…。

 時を経た写真は面白い。撮った瞬間は、誰もが目にしていたありふれた光景が、何十年もたってみると、当時の景色やモノばかりか、人々の気分までも表す証言になる。そこに私は写っていなくても、ここに私はいた、こうやって私たちは生きてきたのだな、という生々しさがこみ上げてくる。

 敗戦から四半世紀の写真を眺めて、私が気づいたことは二つ。第一は、昔の日本人はジャガイモ顔だったということ。男も女も下ぶくれっぽい丸顔で、ごつごつしている。食糧難がつづいたはずなのに、特に子どもや若者がそうだ。一生懸命育てた親たちの苦労が、その背後に透けて見える。

 第二に、みんながそのジャガイモ顔で、世の中の主人公として振る舞っていること。廃墟から豊かさに向かう熱気のなかで、一人一人が潑剌と動いている。まさに民主主義が新鮮だった当時の時代相である。悲惨な事件や事故や災害も少なくなかったのだが、そのときでも人々は目の前の現実にひたむきに立ち向かっている。

 多くの写真を見て、単に感慨や回想にふけるのではなく、歴史として認識し、そこから現在と未来を動かす潑剌さを取りもどせるかどうか。読者の力量も試されるシリーズである。(ノンフィクション作家)

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