失われた自由を求めて

地位を捨て演奏の喜び戻る  宗教の情熱に導かれ

 国際的な名ピアニストのフランソワ・ルネ・デュシャーブル(58)が自由を求め地位と名声を捨て、世界のひのき舞台でのコンサート活動をやめて7年になる。国内での音楽活動の傍ら、地域の小学校や精神科病院、刑務所、老人ホームで社会奉仕の演奏を続ける。新たな人生で彼は何を得たのか。フランス東南部アヌシー郊外のサンジョリオを訪れた。

英雄ポロネーズ

 2千メートル級のアルプスの山々に囲まれたアヌシー湖は清澄な水をたたえた美しい湖だ。サンジョリオは西側の湖畔に位置する人口約6千の町。2010年12月半ば、氷点下3度の雪の夜、町のホールで音楽祭が開かれた。
 聴衆は地元の消防士や酪農家、教師の家族連れ約200人。小学生から高校生までの子どもたちが数人ずつ舞台に上がりバイオリン、フルート、クラリネットを演奏した。合間に赤いシャツ姿のデュシャーブルがショパンのワルツ、マズルカ、ノクターンを弾いた。フィナーレは英雄ポロネーズ。力強くリズミカルに崇高な音が鳴り響いた。
 「ピアノの詩人」ショパン生誕200年の掉尾(ちょうび)を飾るにふさわしい熱情的な演奏は聴衆を圧倒し、深い感動を与えた。「ブラボー」の連呼。音楽祭が終わり、演奏した子どもたちが楽譜をつつましく差し出すと、デュシャーブルは快くサインに応じた。サービス精神に富んだ謙虚な人だ。
 4歳からピアノを習い、素早く上達。練習しないでも楽譜を初見で弾く楽しみを覚えた。父は8歳の時に亡くなるが、両親から受けた「天から授かった才能で、人々を幸せにしなければいけない」というカトリックの教えを守ってきた。
 7年前、フランスのマスコミは一斉にデュシャーブルの「引退」を報じた。
 「その情報は正確ではない。私は田舎で静かに生活するために国際的な演奏活動をやめただけです。でも劇場で演奏の仕事は続けている。7年間に360回の演奏をした。今年は70回。それが今の私の仕事と生活です」
 俳優によるユゴーの詩の朗読や、マルセイユのバレエダンサー3人の創作ダンスに合わせてショパンやシューベルトの曲を演奏する。「劇場や野外、自然の中で演奏する幸せ、聴衆の愛情を取り戻しました」

 ボランティアの社会活動は年に15回。老人ホームではクラシック音楽だけでなくシャンソンも弾く。老人たちはいっしょに歌い、ワルツを踊りだす人もいる。
 輝かしい経歴だ。16歳でエリザベート王妃国際コンクールに入賞。名ピアニスト、ルビンシュタインと、カラヤンとの出会い、ソリストとして多くのオーケストラと共演し国際的な名声を得た。だが堅苦しいコンサートの苦痛に耐える自分は殉教者のようだった。

自由はまだ遠く

 「この7年間はとても早かった。過去のすべてと決別できて幸せです。何の悔いも、失ったものもない。でもまだ私は完全に自由ではない。望んだ人生からはまだ遠く、満足はしていません」
 30歳で結婚したが13年間で離婚。独身で15年暮らした。今はいつか再婚して家庭を築きたいと思う。目標は7年後。「今の人生ともっと違った人生を望んでいる。妻と子どもたちを得て将来を準備できれば素晴らしい。でもそれができなければ、物質的なものすべて、保険や家を捨て、カトリック修道会に入ろうと思う」
 「もっと清貧に暮らしたい」と願い、フランチェスコ会に心引かれる。
 60歳になる2年後には、(スペイン北西部の聖地)サンティアゴ・デ・コンポステラに巡礼を計画している。
 宗教的な情熱は300年前の思想家パスカルを思わせる。「われわれは生きているのではなく、生きようと望んでいるのだ。また幸福になろうとつねに準備しているので、幸福になれないのはやむをえない」(著書「パンセ」より)。
 デュシャーブルはさらに前進する。将来再婚して家庭を持つか、独身のまま修道会に入るか。新たな選択が待ち受ける。人生と音楽において彼が以前より幸福になったのは間違いない。だが自由の探求は生涯続くことだろう。

自然の中で演奏楽しむ

動物好きの音楽家

 デュシャーブルは都会暮らしが嫌いな「自然児」だ。アヌシー湖畔に母方の祖父が1912年に建てた3階建ての美しい家に、96歳の母親と愛犬と暮らす。居間のステンドグラスの窓際にグランドピアノとアップライト、世界で50台限定の2台がつながった連弾用のプレイエル製ピアノが並ぶ。
 自転車の前にピアノ鍵盤を設置した「ピアノシペード」をこいで町の広場や湖など気の向いた場所で自由に演奏を楽しむ。家では愛犬を右手でなでながらラベルの「左手のためのピアノ協奏曲」を弾いたりもする。
 ロワール地方のサファリパークでピアノを演奏した。「ムソルグスキーの曲を弾いたらサイが怖がって土ぼこりを舞いあげながら逃げて行った。ライオンのオスが数頭のメスといっしょにいたのでリストの『愛の夢』を、カバの前ではドビュッシーの『水に映る影』を弾いた。もちろん動物たちのために演奏したのではない。反応を見るのが楽しいから遊んだのです」
 夏に家でピアノを練習していると、小鳥たちが窓から入ってきた。森の中で演奏したら、ツグミとノロジカがやって来た。「馬はとても面白い。音楽を聴く耳を持たないけど、騎手が聞き分けさせる。騎馬学校の曲馬パフォーマンスでも弾きました」。小鳥に話し掛けた伝説のアッシジの聖フランチェスコを慕う、大の動物好きなのだ。(文 粟村良一、写真 沢田博之、文中敬称略)=2011年01月19日

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サンジョリオのホールで、音楽祭の最終リハーサルをするデュシャーブルと地元の女性。26年前のホール落成時にもここで演奏、この日はショパン生誕200年を記念して、英雄ポロネーズなど4曲をソロで弾いた=フランス東南部アヌシー郊外

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