神と人間、二つの人生

努力重ねIT技術者に  信仰あついネパール

 小さな中庭に毎日多くの人々が詰め掛けていた。目的は私の姿を一目見るため。3階の窓から私が顔をのぞかせると、善男善女たちは喜びの声を上げ、手を合わせた…。
 1986年、4歳だったラシュミラ・シャキャ(28)は、ネパールの首都カトマンズで女神の化身として崇拝されている生き神「クマリ」に選ばれた。以来、家族と引き離され、12歳までの8年間、外部との接触を禁じられ「クマリの館」で暮らした。
 神となったラシュミラのもとに祈願の人々が殺到した。神秘的な生き神を目当てにあふれる外国人観光客。民主化運動の興隆に不安を抱いた国王も祈りをささげに訪れた。崇拝の対象となっていることなど幼いラシュミラは知らなかった。

孤独な館

 アジアの最貧国の一つ、ネパール。人々は信心深く、人口約2900万のうち8割がヒンズー教徒で1割が仏教徒。クマリはヒンズー教と仏教を併合したネワール族の信仰神で、その信仰は13世紀にさかのぼる。カトマンズとその周辺に住む約100万人のネワール族にとって、クマリはネワール文化の根幹だ。
 「手が柔らかく繊細」「美しい声」など32項目をクリアした聡明(そうめい)な少女が選ばれる。各地に計12人のクマリがいるが、ラシュミラは一番格式が高い「ロイヤルクマリ」だった。
 約300年前に建てられた3階建てのクマリの館。世話役たちが一緒に住み、食事や着替えなど身の回りの一切合切を担当する。クマリは赤い衣装に着替え、きれいに化粧をされ、毎朝9時にプジャという宗教儀式に臨む。その後、参拝者に会い、日に何度か窓から顔を出すのが務め。
 外出も通学も許されなかった。館の壁1枚が天上と下界を隔てた。「登下校する子どもたちの声に耳を澄ませていた」。孤独と寂しさを癒やしたのが人形たちだった。信者から贈られたクマやイヌの縫いぐるみ約20体を寝台に並べた。お気に入りは自分と同じ赤色の洋服を着た女の子の人形。そして話し掛けた。「私の友だち」

普通の女の子に

 クマリは初潮を迎えるとその役目を終える。12歳でラシュミラは普通の女の子に戻った。クマリの館から徒歩10分のわが家で、5人姉妹と弟1人、両親の計8人の大家族の生活が始まった。姉妹と寄り添う寝台。食事の後片付け。家族生活のすべてが新鮮だった。「近くの駄菓子屋で25ネパールルピー(約28円)を出して自分でチョコレートを買った」。当たり前のことがうれしかった。
 だが、喜びは長くは続かなかった。8年間の勉強の遅れが重くのしかかった。残りの人生は安穏としていられない。小さな子どもたちに交じって小学校へ通った。初めての読み書き、算数…。夜遅くまでの自宅学習。学力のなさに打ちのめされた。運命をのろった。
 「こんな苦労が分かっていたら、クマリにはしなかったのに」と母は嘆いた。
 しかし、ラシュミラに家族はどこまでも優しかった。「おとなしく恥ずかしがりやの妹を励まし勉強させた」と姉のスラミラ(32)は振り返る。努力を重ね、普通の子より2~3年遅れで高校卒業試験をパス。科学系大学へ進学した。
 クマリになった女性は薄幸な人生を送る―。日常生活に適応できなかったり、勉学の遅れを克服できない元クマリが多い中で、ラシュミラは元クマリとして初めて学士号を取得、自力で未来への扉を開いた。
 「クマリであったのを後悔したことは一度もない。クマリはネパールが世界に唯一誇れる文化だと思う」。ソフトウエア開発の情報技術(IT)エンジニアとして独り立ちした今なら自信を持ってそう言える。
 クマリとして幼少時に過ごした栄華のひととき。だが「過去よりも未来の方がずっと大事」。
 ジーンズと深紅のマニキュアが似合う女性に生まれ変わった。街を歩いていても今では誰も振り返らない。「二つの人生を歩むことができたのは幸せ」。少女時代の思い出を胸に、ラシュミラは輝く未来への道を歩み出している。

王制廃止後も多くの信者

政治の介入に懸念も

 ネパールは2008年に立憲君主制から連邦共和制へ移行し、生き神「クマリ」の擁護者であった国王が政治的実権を失った。クマリを取り巻く時代は動いている。だが、民主化に向けて政治体制が変わろうとも、クマリの館には毎日多くの信者が祈願に訪れ、信仰のあつさを物語っている。
 先祖代々クマリの世話役を務める家系に生まれ、現在のクマリを世話するゴータム・シャキャ(42)によると、クマリが参加する祭典は年に13回あり、そのうち最大の祭りが9月の大祭「インドラ・ジャトラ」。政府は今年、ギャネンドラ元国王の大祭への参列を禁止し、代わりにヤダブ大統領がクマリに祈りをささげた。
 「政治による宗教への介入」だとして大統領の参列に反対し、抗議行動を行うヒンズー教徒も現れ、大祭開催中は厳重な警備が敷かれた。元クマリのラシュミラ・シャキャも「祭りは年々政治色を帯びてきている」と懸念を示す。
 混乱をよそに、クマリの館にはネパール人参拝者の列が絶えない。尊敬を示すためにクマリの足に恭しく触れて供え物を渡し、祈る。「クマリを見られただけで幸せ」と参拝を終えた女性は感無量の様子。「政治環境は変わっても人々の心の中までは変えることはできない」。ゴータムは、伝統に基づくクマリ信仰は不変だと指摘した。(文 清水健太郎、写真 村山幸親、文中敬称略)=2010年11月10日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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ネパールの古都パタンで、絶え間なく訪れる参拝客に祝福を施すクマリ。首都カトマンズ以外の各地にも、クマリと呼ばれ崇拝される生き神の少女たちがいる

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