柿渋生産で村おこしを

愛犬と山奥に暮らす  革命家徳田球一の孫

 「天然素材の柿渋は環境にもやさしい。事業が成功し、各地に広がれば、貧しい農村の貴重な収入源になるはず」。人懐っこい笑顔で話す西沢なぽり(59)。中国山西省の山奥、史山村で愛犬ロジンと暮らしながら、村営企業の責任者として、柿渋生産の事業化に全力を尽くす。
 中国との付き合いは、祖父徳田球一(1894―1953年)、父西沢隆二(にしざわ・たかじ)(1903―76年)に続き3代目。日本共産党幹部だった徳田と隆二らは、朝鮮戦争時のレッドパージ(共産党員の公職追放)を受け、50年中国に亡命。毛沢東ら中国の指導者の支援を受け、日本に社会主義革命を起こそうとした。

一念発起

 西沢は父の勧めにより、65年、14歳で北京に留学。翌年、プロレタリア文化大革命が始まると、毛沢東思想を信奉する学生組織、紅衛兵に入った。当時の西沢の写真はまだあどけないが「紅衛兵同士の内ゲバも多く、護身用にワルサー拳銃で武装していた」。
 文革中は反革命やブルジョアとされた人々がつるしあげられ、非常に多くの犠牲者が出た。
 「純粋に毛を信じたが、中国指導部の権力闘争もあり、政治不信になった」。留学後は隆二が起こした友好商社の北京駐在員として「対中ビジネス」の道を歩み始めたが、革命家だった祖父、父とは違い「政治」とは一線を画す。2007年までの17年間は中国浙江省で日本企業のアパレル工場社長を務めた。
 「還暦も近づき、中国のために何か良い仕事ができないか」と考えていたころ「中国でも柿渋がとれるのでは」という日本の友人の話をヒントに一念発起した。
 渋柿から抽出した柿渋は防水性、防腐性が高く、日本では昔から傘や紙、釣り糸に塗るなど活用されてきた。重金属を吸着したり、皮をなめす作用もある。
 西沢が調べたところ、日本の柿の収穫量は年二十数万トンだが、中国では野生の渋柿が年200万トン実り、ほとんどが収穫されていない。「原料は毎年大量に実り、生産は持続可能だ」
 西沢は柿の産地の中から史山村を見つけだし、村長の劉暁江(56)に直談判して、08年5月、起業した村営企業の社長となった。まかないの夫婦を含め、10人に満たない小さな会社。試行錯誤の末、柿渋粉末の生産ラインを立ち上げ、柿渋せっけんなどを作り始めた。
 月給1万3千元(約16万円)の契約だが「会社の利益が出ないので、もらえない。ボランティアです」。採算をとるには販路を広げ、生産を大幅に拡大しなければならない。外資の導入や政府の助成が不可欠だ。
 「公害防止用の重金属の吸着剤や、皮なめし剤として販路を広げたい。温家宝首相に助成を求める手紙を書こうかと本気で考えている」

 事務所の小部屋でロジンと眠る。昨年は交通事故で腰の骨を折り3カ月入院。今年春には狭心症の手術を受けた。上海の日本人向けクリニックで看護師長を務める妻しげ子(57)は「年なのだから無理しないで」と気遣うが、西沢は北京や上海への出張に飛び回る。
 劉は「こんな山奥まで1人で来て、村の事業のために尽くしてくれる。心臓も悪いのに決して仕事を投げ出さない」と厚い信頼を寄せる。

コスモポリタン

 もともと中国語はぺらぺらだが、山西省なまりにも慣れた。社員とサイコロで遊びながら酒を酌み交わし、近所のお年寄りとマージャンを楽しみ、炭鉱の若者とオートバイでツーリングに行く。
 詩人でもあった父はイタリア・ルネサンスを愛し、息子を「なぽり」と名付けた。すっかり村に溶け込み「中国国籍を取ろうかな」と話す西沢からは「コスモポリタン(世界主義者)の遺伝子」が感じられた。
 中国で激しい政治の季節を体験。経済大国となった中国の大きな変化を目の当たりにした。
 今の中国について、高成長下の「思想の欠如」「ナショナリズム」「拝金主義」などの問題点を挙げ「タガがはずれている感じ。共産党が持ちこたえられるか心配だ」。中国と生きて45年。中国をよく知り、愛するからこそ、舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。

中国と共闘、革命目指す

激しい政治の時代

 「徳球」の名で知られた日本共産党の幹部、徳田球一が1950年に中国へ亡命し、中国のプロレタリア文化大革命(66―76年)が終わるころまでは、中

国の指導者と日本の一部左翼が共闘し、日本に社会主義革命を起こそうとした激しい政治の時代だった。
 徳田は22年、日本共産党の創建に参画。28年に逮捕され、戦後に釈放されるまで18年間、獄中生活を送り、戦後は共産党書記長となった。
 中国では毛沢東ら指導部の全面的支援を受け「北京機関」として、地下放送を通じて日本の武装闘争を指導。53年に北京で病死したが、55年まで公表されず、同年9月に北京で行われた追悼大会には3万人が参列した。
 毛は「徳田球一同志は永久に不滅なり」との弔辞を揮毫(きごう)した。
 西沢隆二は元日本共産党中央委員。徳田の娘婿であり、北京機関メンバーだった。55年に帰国。66年に党を除名され、毛沢東思想研究会を組織し、文化大革命が始まった同年に毛が紅衛兵と接見した際、毛と並んで天安門に立った。
 留学中だった西沢なぽりは、この光景を北京の中国共産党中央連絡部のテレビで見ていた。
 隆二は67年、中国の指定を受けて友好商社、五同産業を設立して繊維関係の対中貿易に従事。一方、日大闘争の写真集を発行するなど、日本の学生運動や成田闘争など新左翼運動を支援した。(文 森保裕、写真 岩崎稔、文中敬称略)=2010年09月15日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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史山村の柿は毎年7月ころ収穫される。集められた柿を粉砕機に入れ、柿渋の原液を搾り取る作業員=中国山西省

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