国家への忠誠に捧げた人生

ベトナムで5年間の投獄  脱北、そして朝鮮戦争

 「振り返って見れば、財産も何も残っていないが、私の人生は国家への忠誠ということだったのかな。陸軍士官学校総同窓会から『誇らしい陸士人』という表彰を受けたが、残ったのはこのメダルだけかもしれないね」。ソウル近郊の京畿道(キョンギド)のアパートで妻と暮らす李大鎔(イ・デヨン)(84)はそう自らの半生を振り返った。
 現在は北朝鮮の黄海北道(ファンヘプクト)金川(クムチョン)郡で男4人女4人の8人兄弟の三男として出生。兄2人が既に死亡、母の愛情を一身に受けて育ったが、母は李が9歳の時に亡くなった。
 家から5キロ離れた白馬(ペンマ)普通学校に通ったが、熊本県から派遣されて来た井芹貞夫という日本人の先生がいた。「本当に立派な先生だった。声を荒らげたり絶対にしなかったが、国のために犠牲になることを教えてくれた。現在の私の価値観、死生観がはぐくまれた」
 苦学して京城師範大学を出た。1945年に日本の植民地支配が終わり、平壌(ピョンヤン)に無料で勉強できる大学ができたと聞き、金日成(キム・イルソン)総合大学医学部へ行こうと思ったが、乾性胸膜炎を患った。
 故郷に帰り健康を回復し、平壌での生活費を準備するために金川金郊(クムチョンクムギョ)人民学校の先生になった。47年6月、金川郡人民委員会教育局長から、独立運動家の金九(キム・グ)と韓国の初代大統領の李承晩(イ・スンマン)を民族反逆者として糾弾せよと指示が下りた。李は学校で「だが、金九や李承晩は独立運動を熱心にやった」と述べた。
 この発言が問題になり6月29日、人民裁判が始まった。夜になり、検事の腕を払い雨の中を逃亡した。逃亡4日目の7月2日、38度線を越え南の地を踏んだ。最初の死線を越えたが、父や姉、弟と生き別れとなった。

南で軍人に

 48年陸軍士官学校を卒業、軍人としてスタートを切った。50年6月、朝鮮戦争が始まり、李は陸軍第7連隊第1大隊第1中隊長の陸軍中尉として春川(チュンチョン)からすぐ前線へ。
 10月29日からは慈江道(チャアガンド)楚山(チョサン)郡で中国軍包囲網の突破作戦を展開した。味方と思って声を掛けたのが中国軍で、銃撃され九死に一生を得たことも。
 故郷の金川郡近くを移動中の50年12月に父の死を知った。父の墓前で涙を流したが、その夜に移動命令が下り、これが最後の故郷訪問だった。
 3年間の戦争で、李が属した第7連隊では、上官2人、直属部下の小隊長4人はすべて戦死したが李は生き残った。朝鮮戦争という2度目の死線を越えた。
 55年2月に陸軍大学に入学し、猛勉強して同大学教官となった。米国の陸軍指揮参謀大学への留学も実現した。第3大隊長や第23連隊長などを務め、ベトナム駐在武官や政務官などを務めて72年3月に帰国。ゴルフ場で会った旧知の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の指示で、駐ベトナム経済公使として73年2月から3度目のベトナム勤務となった。

サイゴン陥落

 しかし、75年4月30日、南ベトナムのサイゴンが陥落した。妻と4人の息子は既に出国していた。李は残った大使館員では最も高い地位にあり、残留韓国人に責任を負わねばならなかった。結局、出国できなかった。
 李ら3人の韓国外交官は10月3日に「ベトナム革命事業の妨害」容疑で逮捕され、日の差さない刑務所に収監された。李は外交官はウィーン協定で免責特権を有しており逮捕は不当であると訴えた。「死ぬ覚悟はできていた。ちゅうちょなく死の道を歩む純朴で高貴な行動こそが陸士人が取る散華の美学だ」と思った。70キロ台後半だった体重は46キロになった。かっけにかかり、たびたびめまいがした。
 78年9月、刑務所の外に連れていかれ、そこには北朝鮮の党統一戦線部の人物がいた。彼らは李に転向を求め、北朝鮮へ行くことを要求した。
 インドのニューデリーで3人の釈放をめぐる韓国、北朝鮮、ベトナムの協議が続いたが成果を生まなかった。79年になり、ユダヤ人実業家として知られるアイゼンバーグが朴正熙政権に接近した。アイゼンバーグは李らの釈放をベトナムと秘密交渉すると提案してきた。
 それも79年10月に朴大統領が暗殺され、挫折した。だが、韓国で秘密交渉の継続が決まった。そして80年4月11日、李は釈放され、5年間の獄中生活にピリオドを打ち、家族の待つ祖国へ向かい3度目の死線を越えた。

寛容で崩せない壁はない

27年間のしこり越え和解

 韓国とベトナムは1992年に国交を正常化、大使

館を相互設置した。
 運命のいたずらか、75年に李を逮捕、尋問したズオン・チン・トゥクが2002年に3代目のベトナム大使としてソウルへ赴任してきた。大使は赴任前に「李公使が死ぬ覚悟で屈服しない姿を見て大きな感銘を受けた。立派な愛国者として尊敬する」と語った。
 李の心境は複雑だった。「何が尊敬だ。本当にそう思っていればあの時そういう態度を取るべきで、今になって…」。悩んだ末の結論は、国益のために復讐(ふくしゅう)の思いを捨て、彼に会わないようにすることだった。知人たちは大使と会うことを勧めたが拒否した。
 しかし、02年9月、李が会長を務めたロータリークラブの例会で大使が講演をすることになった。再会した大使は「私は将軍の先見の明に驚きました。国際関係に永遠の敵も友邦もないとおっしゃったが、敵であったベトナムと韓国がこんなに親密な友邦になった」と李を称賛した。李は、その言葉に過去への謝罪が含まれていると感じた。
 李は「当時、大使はベトナムに、私は韓国に忠誠を尽くした。私たちの私怨(しえん)ではなく、公怨が厳しい状況をつくっただけです」と答えた。
 李は「恨みは去り、平和が来た。寛容の力で崩せない壁はない」という悟りに至った。27年間のしこりがようやく解きほぐされた。2人は和解し、今では李がベトナムを訪れれば、トゥクが歓待をしてくれる関係だ。(文・写真 平井久志、文中敬称略)=2010年07月21日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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1971年ごろ、ベトナムの在サイゴン(現ホーチミン)韓国大使館の庭で、記念写真に納まる李大鎔一家(同氏提供)

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