語り継がれる黄麻の父

ブラジルの主要産業に  遅咲きのアマゾン移民

 緑濃い地平線に雨期の厚い雲が垂れるブラジル・アマゾン川流域のパリンチンス。人口約10万人の町の公立小学校では児童が校歌を高らかに合唱していた。「日いずる国からリョウタがやって来た、河岸にジュートが広がって、私たちの心に愛が芽生えた」。1933年、この地に移住した日本人、尾山良太の足跡をたどった歌だ。
 尾山は日本人移民がアマゾンに持ち込んだ繊維作物ジュート(黄麻)の新種を見つけ、栽培が振るわず危機的状況にあった移民社会を救った。これが、ゴム栽培の衰退で疲弊した地域の主要産業に育ち、50年代にはアマゾナス州の域内総生産の約3割を占めた。尾山は「ジュートのパイ(父)」として語り継がれている。

遅咲き

 「身長150センチの小柄な体に野太い声。言い出したらとことんやる。一徹なおやじだった」。パリンチンスの自宅で晩年を共にした三男、多門(90)が振り返る。尾山は1882年に岡山県井原市に生まれ、イグサ敷物製造に携わり農業新聞も発行。農村事情の向上に関心を持ち政治組織も立ち上げ、日本人によるアマゾン開拓を進めていた政治家、上塚司を知り、開拓計画に共鳴したとされる。
 「地味豊沃な大アマゾンに新日本の植民地」を掲げる上塚は80年前の1930年、移民社会の指導者を養成する学校を日本につくり、後に日本高等拓植学校(高拓)に改組した。尾山の長男万馬が2回生に入学。尾山が50歳の時、一家はアマゾン川支流をさかのぼり移住地に入った。
 「ジュートは不作で、コメを作っても安値でしか売れない。マラリアに倒れ、移住地を去った人も多い」。同時期に兄らと移り住んだ原田清子(93)は過酷な現実に息をのんだ。
 世界有数のコーヒー生産国ブラジルは当時、豆などを入れる麻袋をインドからの輸入に依存。上塚はインド原産のジュートを土壌が似たアマゾン川岸で栽培し、移民社会の運営事業の柱にと考えた。インドから入手した種で実験を重ねたが、十分に育たず繊維質不足で採算が合わず、前途には絶望感が漂っていた
 「どんな種の中にも良いものがあるはずだ」。イグサ栽培で経験を積んだ尾山には期するものがあった。雨期に川が増浸水する湿地帯に種をまき、大半が高さ1・5メートルで結実する中で2本が成長を続けた。1本は流木で倒され、残った木を丸太で丁寧に囲い、多門が小舟で連日様子を見守った。4メートル近くまで伸び、数十粒の種を採取したのは移住から約半年後の34年5月だった。

遺産

 尾山は高台で種子を増産し希望者には無料で配った。「尾山種」と名付けられ3年後、計約9トンのジュートを初収穫、ブラジル人の間でも栽培が瞬く間に広まった。ピーク時の65年、国全体の生産量は約6万2千トンに達し、50年代末からは輸出産品として同国の外貨獲得にも貢献した。
 37年に入植した高拓7回生、東海林善之進(95)は「戦前インドは英領下にあり、アジアの植民地争いで日本と対立、日本に良質の種は出さなかった。尾山種の発見は救いの主だった」と打ち明ける。
 ところが、真珠湾攻撃後の42年、ブラジルは日本と国交を断絶し開拓の本部施設は接収、日本人幹部らは拘束され、戦前の移民社会は歴史を閉じた。尾山も表舞台から姿を消した。「自分の役目は終わった」。戦後になっても手柄話は一切口にしなかったという。
 72年5月、尾山は自宅で草刈り中に突然亡くなった。89歳。共同墓地の小さな石棺に葬られ、町は3日間喪に服した。日本全体が「列島改造論」に沸いていたころだ。
 ジュート産業は化学繊維の商業化で斜陽の一途だったが、最近栽培を奨励する動きが出てきた。環境保護意識の高まりでプラスチックに代わる天然素材に用途が期待されているためだ。死後約40年、尾山の「遺産」は再び脚光を浴びつつある。
 老境の多門が語る。「おやじは裸一貫で日本から来て、ジュートを見つけ名前を後世に残した。立派な生きざまだ」

永住念頭にリーダー養成

短命に終わった高拓

 戦前ブラジルへの日本人移民の多くはコーヒー農園への出稼ぎだったが、アマゾン移住のうちジュート栽培を事業とした移民は永住を念頭に置いた。リーダー養成機関、日本高等拓植学校(高拓)は1931年から37年まで243人の卒業生を送ったが、ブラジル側の移民制限や日本の満蒙開拓移民の増加もあり約7年間で閉鎖、短命に終わった。
 23年の関東大震災、27年の昭和金融恐慌で農村が疲弊した日本は未曾有の危機に直面、過剰人口の受け皿として20年代後半からブラジル移住が急増した。経済が低迷したアマゾナス州も同国南部で農業移民として成功していた日本人に着目、日本側に百万ヘクタールの土地無償譲渡を決めた。
 入植地確保のため地元農民を強制移住させた満蒙開拓と異なり、人口密度が低い密林を日本人自身が切り開き、後には財閥が出資した事業運営会社も設立された。4回生の清水耕治(95)によると、日本で1年間ポルトガル語研修や農業実習などを受けて現地入り。パリンチンス対岸に位置する移住地の拠点ビラアマゾニアには宮造りの本部建物や病院、上下水道も完備していた。
 移民史に詳しいカミロ・ラモス・アマゾナス州立大教授は「戦争までの10年間でアマゾン開発は急速に進んだ。ジュートはブラジル人の手に移って栽培が拡大、日本人は経済発展で重要な役割を果たした」と話す。(文 名波正晴、写真 高橋直子、文中敬称略)=2010年07月13日

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様をく。

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約80年前に日本人移民が持ち込み、土地に定着したジュートを収穫する作業員=ブラジル・アマゾナス州

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