最後まで優しかったあの人

軍属の夫追い沖縄から比へ  親の墓に「幸せ」伝える

 背丈の数倍はあるヤシが立ち並び、葉がかすかに揺れていた。フィリピン最南部のミンダナオ島ジェネラルサントス郊外の村。うだるような暑さも木陰に入れば心地よい風を感じる。小石が転がる未舗装の路地に入ると、白髪で小柄なヨシ・ドフィレス(76)が、赤茶色の古びた門の向こうでいすに腰掛けていた。
 沖縄本島中部で生まれ育ったヨシがフィリピンに渡ったのは1961年。米軍統治下の沖縄から3歳の長女と一緒に軍用機に乗り、ルソン島の基地に降り立つと出迎えたフィリピン人の夫ジョスダドの胸に飛び込んだ。「寂しかったよ。来てくれてよかった」。夫の言葉に涙がほおを伝った。

爆弾の破片

 

 ヨシは沖縄戦をからくも生き抜いた。「爆弾の破片がすぐそばに突き刺さり、触ったらものすごく熱くてびっくりした」。12歳のヨシは防空壕(ごう)から出て両手を挙げ、米兵の前に立った。ヨシは両親とともに米軍の収容所へ。軍属の兄は船上で爆弾の直撃を受け死んだ。
 戦争の深い傷跡を残しつつ、沖縄がようやく復興の道を歩み始めたころ、ヨシは知人のつてで米軍施設内の売店PXで働き始めた。「給料のいい米軍の仕事にあこがれていた。まだ幼い弟がいたし、自分の服を買う小遣いもほしかった」
 ジョスダドとはそのPXで知り合った。軍に雇われ自動車整備担当として働いていた彼は、ヨシがサンドイッチを売る店に客としてよく訪れた。
 当時、軍属のフィリピン人は沖縄の人々よりはるかに収入が良かった。最初はジョスダドの羽振りの良さをただまぶしく見ていたが「カウンター越しにお互いの家族の話をするうち、優しい人だと分かった」。職場の電話でデートの約束をし、週末の夜はダンスホールへ。彼はウイスキー、ヨシはコーラを飲みながら踊った。少しだけ背伸びしたヨシの青春だった。
 周囲は交際に猛反対した。「顔に泥を塗ってくれたね」と母は激怒した。姉には町の中でひっぱたかれた。「外国人と交際していると、後ろ指を差された時代だった」
 53年に二人は基地内の教会で結婚式を挙げた。ヨシは19歳、ジョスダドは23歳。家族は誰も呼べず「寂しくて涙がぼろぼろ出たよ。神父さんが心配して私の顔をのぞき込んだほど」。4年後、長女が生まれた時は心配した母が駆け付け「子どもに罪はない」と喜んでくれたが、頑固な父からの祝福の言葉はなかった。
 61年、軍との契約が切れ帰国を余儀なくされた夫を追って海を渡り、暮らし始めた首都マニラでは言葉も習慣も分からずとまどうばかりだった。
 道に迷い、泣きながら行く先を尋ね歩いたこともある。扇風機を買う余裕がなく、暑さで体をこわした。

 数年後、一家はミンダナオ島への移住を決意。夫はジプニー(小型バス)の運転手やピーナツ農場のマネジャーとして働いた。子どもは5人になったが、ヨシも日本から訪れる戦没者遺族の墓参団の通訳として収入を得るようになった。

たった一度の帰郷

 フィリピンに渡って30年たったころ、ようやくわずかな余裕が生まれたヨシは初めて沖縄に帰り、両親の眠る墓の前で祈った。「夫と逃げてしまってごめんなさい。でも私は幸せ。心配しないで」。今に至るまでたった一度のヨシの帰郷だ。
 夫ジョスダドはがんに侵され、94年9月、雨期の終わりに自宅で亡くなった。65歳だった。
 「あんたがいなくなったら私はどうしたらいいのよ」。手を握り締めるヨシに「おれはもうあの世に行く。でも、おまえは元気で子どもたちを見守ってくれ」。教育熱心だった夫の最後の言葉に「心配しないで。私が見守る」とヨシは告げた。
 そのとき20歳だった末の息子も今は警察官に。孫の一人は2年前、看護師になった。子どもや孫たちが立派に育っていることがヨシの誇りだ。
 昨年、夫が信仰していたカトリックの洗礼を受けた。夫が眠るこの地に骨をうずめるつもりだ。「最後まであの人は優しかった。一緒になってこの国に来て良かった」。ランが茂る庭を見詰めながらヨシが言った。

子どもたちは比から日本へ

渡航後の人生苦難も

 「戦争がなければあの人と結婚し、ここに暮らすことはなかった」。ヨシ・ドフィレスは自分を“戦争花嫁”と呼ぶ。
 米軍は沖縄統治初期から技術職などにフィリピン人を軍属として雇用したが、予算削減の影響で給与水準の高かったフィリピン人を1950年代半ばから段階的に削減。沖縄の女性と結婚し家庭を持っていたフィリピン人男性の中には失職後もひそかに沖縄に残り続けたケースもあるが、多くはフィリピンに帰国、妻子と離れ離れになった。
 帰国した軍属のフィリピン人の夫を追い、意を決して沖縄からフィリピンに渡った女性は少なくとも数百人規模でいたとみられるが、中には夫がその後、フィリピンから職を求めて戦火のベトナムへ渡り、そのまま消息を絶った例もあるという。結婚生活が破綻(はたん)した後も、親の反対を押し切って来たゆえに、沖縄に帰ることなく子どもを育て続けた女性も多い。
 沖縄からの花嫁の子どもたちは今、仕事を求め、母とは逆にフィリピンから日本へ渡る。
 56年に夫を追いミンダナオ島に渡ったヨシ・ラソナベ(82)は7人の子どものうち6人が東京都内や静岡県で暮らしている。日本で自動車解体工として働くフロイド(47)は「初めは言葉も通じず、フィリピンに渡った当時の母の苦労を痛感した。でも今は母の故郷の日本が大好き」と話す。(文 岡坂健太郎、写真 村山幸親、文中敬称略)=2010年03月17日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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ヨシの自宅に立て掛けられた、PXで働いていたころの彼女の写真。最後まで優しかった夫への思いは、今も変わらないという=フィリピン・ミンダナオ島ジェネラルサントス郊外

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