ネット社会の悪夢と希望

腐敗に怒り「主婦を救え」  失われた普通の暮らし

 1本の電子メール送信が悪夢の始まりとなった。「まさか、こんなことになるなんて」。インドネシアの首都ジャカルタ郊外の自宅で、保釈中のプリタ・ムリヤサリ(32)は何度も嘆いた。
 2008年8月、39度の熱を出した。地元の大病院は蚊が媒介するデング熱と診断。入院し点滴などを受けたが、症状は逆に悪化した。手足や目が腫れる。一時、呼吸困難にも陥った。不安になって医師や看護師に尋ねたが、きちんと回答してくれない。6日後、別の病院へ移ると「おたふくかぜ」と診断された。
 「私のような体験をみんながしないように…。名前や外観が立派なだけで病院を信用しないで」。医師の実名も挙げた赤裸々な電子メールを親しい友人ら20人に送った。
 ところが、メールは次々と転送されてしまい、知らぬ間にインターネット上で広まった。「9月のある朝、夫が自宅で友人から電話を受けたの。新聞に私のことが出てるって」。驚いて地元紙を開くと、病院の半ページ広告で「プリタのメール内容は真実ではない。われわれは名誉棄損で訴訟を起こす」と宣言されていた。

刑務所へ

 「あのメールは本当にあなたが書いたのか」。警察がプリタを呼び出し事情聴取を始めた。病院は名誉棄損で損害賠償7億ルピア(約700万円)を求めて提訴。銀行の顧客係として働き、4年前に同僚と結婚した日常生活が急に崩れ始めた。
 2009年5月、地裁はプリタに約2億6千万ルピアの支払いを命じた。検察もサイバー犯罪を取り締まる電子情報取引法違反(名誉棄損)で起訴、証拠隠滅の恐れがあるとして刑務所に拘置された。
 汚職大国インドネシアでも司法の腐敗は最も深いとされる。「メールで友人に病院への不満を伝えただけで、なぜ刑務所へ送られるのか。裏で何かあったに違いない。金持ちは簡単に庶民を有罪にできるのがこの国の実態だから」とカリギス弁護団長。夫のアンドリ(30)は「妻はすっかり気落ちし、何とか励まそうと必死だった」と語る。
 刑務所の狭い一室に10人と押し込まれた。「まるで悪夢。私はどうなるのだろう」。恐怖と絶望に押しつぶされそうになる。1歳と3歳の子供に会わせてくれるよう神様に祈り続けた。
 3週間後、メガワティ前大統領が突然、刑務所に面会に来た。外の世界では「幼い子と離れ離れにされ、かわいそうなプリタを助けよう」と草の根支援が拡大。プリタが泣きながら無実を訴える姿がテレビで放映されると、保釈が決定した。著名な弁護士事務所が無料で弁護団を結成し、地裁は刑事訴訟で7月、無罪を言い渡した。

氷山の一角

 しかし、悪夢は終わらなかった。高裁は地裁の再審理を決定。民事訴訟でも、約2億ルピアの支払いを求める高裁判決が出た。
 ついに国民の怒りが爆発した。ブロガーがネット上で「プリタのためのコイン」募金キャンペーンを開始。「プリタは私たちと同じ普通の人。彼女に起きたことは 人ごととは思えない」。予想を超える速さで同情の声がネットで拡大し、3週間足らずで集まった硬貨は重さ約6トン(総額8億ルピア以上)になった。
 12月末、地裁は再び無罪を言い渡した。プリタは涙を流し、大地に口づけして何度も神に感謝した。「この国で金銭やコネがなくても、裕福な権力者に勝てるという希望を生んだ」と地元メディアは大きく報じた。
 他にも警察や検察の汚職疑惑が続き、ユドヨノ大統領は1月「司法マフィアがはびこる悪習を一掃する」と宣言、司法改革に優先的に取り組むことを約束した。
 しかし検察は上告し、プリタは刑事、民事両訴訟とも最高裁の判決待ちだ。プリタは「私の訴訟は氷山の一角。多くの人が司法の不正義で苦しんでいる。募金は全額そういう人々を助けるために寄付したい」と明かす。今、3人目の子がおなかにいる。「たった一つの願いは、早く普通の暮らしに戻ること」。いまだに怖くて電子メールを再開できないでいる。
 2010年10月8日、民事訴訟については最高裁がプリタ被告に賠償金の支払いを命じた下級審の判決を覆して、プリタさんの勝訴が確定した。刑事訴訟については依然、最高裁の判決は出ていない。

中間層の「民意」反映

政治動かすSNS

 インドネシアでは最近、インターネットのソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)による「ピープルパワー」が注目されている。
 「フェイスブック」や「ツイッター」で、政治問題の賛否を呼び掛けると、支持者の輪が一気に拡大。政府も無視できなくなり、実際の政治を動かすほどの影響力を持ち始めている。
 背景には経済成長に伴う中間層の拡大、ネット環境向上、携帯電話や低価格パソコンの普及があり、SNSは今後、中間層が「民意」を示す武器として活用されそうだ。
 2009年は、プリタ訴訟以外にもSNSが力を発揮した。政財界の汚職幹部を相次ぎ逮捕し喝采(かっさい)を浴びた汚職撲滅委員会と警察・検察が激しく対立した際、SNSで委員会への支持署名が100万人を突破。司法への介入に及び腰だったユドヨノ大統領を動かし、国家警察幹部が更迭、司法マフィアの大物も逮捕された。
 1998年のスハルト政権崩壊後、着実に民主化が進展。しかし、アイルランガ大学のプリバディ講師は「現実の政治や司法は腐敗し、国民の声を代弁していない。失望した国民がネットで自由に議論し、さまざまな問題で団結を示し始めたのは非常に印象的だ。SNSは今、民主主義建設のプロセスで大きな役割を果たしつつある」と説明した。(文 淵野新一、写真 村山幸親、文中敬称略)=2010年02月03日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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週末、家族と訪れたジャカルタ郊外の動物園で、支援者(左端の親子)の求めに応じ記念写真に納まるプリタ。すっかり有名人になった彼女は、どこに行っても見知らぬ人たちから「頑張って」と声をかけられる

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