水墨画のような東洋美

流行追わず自分の時代  東アジアルネサンスを

 韓国語で「松」のことを「ソナム」という。韓国の人たちが「ソナム」と言えば思い浮かべる人がいる。松に憑(つ)かれた写真家、裵炳雨(ペ・ビョンウ)(59)だ。
 裵の作品のほとんどは自然が対象だ。中でも松を素材にした作品はまるで水墨画のような東洋の趣がある。光がやさしく差し込み、揺らぐ空気の中で松たちの息づかいを感じるような作品群だ。
 裵は朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)する直前の1950年5月、韓国南部の全羅南道、麗水(ヨス)に生まれた。300を超える島々など自然に恵まれた地だ。「幼い時から絵が好きで海や山を駆け回り絵を描いた。高1の時、美術大会で1位になったこともある」
 芸術分野で著名なソウルの弘益大に入学した。大学2年の時、同郷の、ともに絵を描いた先輩に「おまえには絵より写真が似合う」と助言され、中古のニコンFなどのカメラをくれた。これが写真へ歩む転機だった。
 裵の目指したのは記録としての写真ではなくアートとしての写真だ。「絵が好きだったので、日本の浮世絵や中国の水墨画を見ながら、カメラでそれをどう表現できるかが最初から自分の悩みだった。韓国の自然や伝統を象徴するものは何だろうかと悩んだ」

ミスター松

 そういう悩みの中で松に出会った。「松はあまりに私たちになじんだものだから関心を払わなかった。日本でも桜を撮った作品はものすごく多いが、松を撮ったものはほとんどなかった」
 裵は84年から松の写真を撮り始めたが、最初はほとんど注目を浴びなかった。しかし、友人たちが「一番貴重なことをしているのだから変化したらだめだ」と激励。10年以上松を撮り続け、少し疲れたころ、日本の友人が「おまえはミスター松。だから、一生、松を撮らなければならない」と忠告してくれた。
 裵は「食堂も写真家もメニューの数が多いだけではだめ。1品目だけ、これはというものがなくては駄目だ」と信じた。
 「人間は同じことをずっとやっていれば、一度は自分の時代が来る。流行を追っかけていると、一度も自分の時代が来ずに追っかけてばかりいることになる」
 2005年5月に歌手で写真収集家でもあるエルトン・ジョンが裵の松の作品を1万5千ポンド(約230万円)で購入して話題になった。また、李明博(イ・ミョンバク)大統領が昨年6月にワシントンでオバマ米大統領と会談した際に、裵の松の写真集をプレゼントした。
 裵は慶州(キョンジュ)の南山(ナムサン)の松林を素材に多くの作品を撮った。裵の写真が有名にな

り、休日にはアマチュアカメラマンが押し寄せ「今は松を撮るのか、人を撮るのか分からない」という。

足で撮る

 人々は、裵は写真を手で撮らず足で撮るという。松を求めて歩き続けた。そして、シャッターチャンスを待つ。待つことが動くこと だという。
 写真家として独自のスタンスがある。デジタルを使わずフィルムにこだわり、人工の照明は使わず、レンズは基本的に一つで、トリミングはしない。「デジタルを拒否しているわけではない。フィルムはいずれ生産されなくなる。その時はデジタルに行くしかない」
 裵は松のほかに、昌徳宮や宗廟などの故宮も撮った。今後は故郷の麗水の海にも取り組みたいという。
 裵の東洋的な作品に引かれスペイン政府の文化財担当者が06年に裵にアルハンブラ宮殿の撮影を依頼してきた。宮殿自体ではなく庭園や森も撮ってほしいということだった。2年をかけてアルハンブラ宮殿を撮った。
 裵は「東アジアルネサンス」を提唱する。「私は北斎が大好きだが、浮世絵によって西欧は東アジアに関心を抱き、印象派は浮世絵の影響を受けた」
 「韓国、中国、日本には漢字文化など共通の文化がある。経済的にも東アジアが世界をリードする時代が来ようとしている。こういう時に、3国が一緒になって文化的な発信をしなくてはならない。1国ではだめだ。浮世絵にいろいろなグループがあったから力を持ったように、3国が一緒に文化的グループを形成しなければならない」と訴える。(共同通信編集委員、平井久志、文中敬称略)

同日生まれの運命的出会い

「あなたを世界的作家に」

 京畿道坡州(パジュ)にある裵炳雨のアトリエで夫人のことを聞いた。「 同じ日に生まれ、同じ大学の同じ学科で学んだ運命的な出会いだった」と言ったが、多くを語らなかった。その代わり、アトリエの一階に「落書き」が残っているから見てみろと言った。
 昨年8月に裵の夫人、高椿惠(コ・チュンヘ)さん(当時、弘益大教授)の10周忌にこのアトリエで追悼の写真展が開かれた。その時に書かれた「落書き」が残っていた。
 「高椿惠と裵炳雨は1950年5月22日生まれで、75年5月のある日出会った(もちろん、私たちは大学でも同じ学科の70年入学だった)。その後、椿惠は私のために苦労の道を歩んだ」
 「 長女は、父さんは家庭を放棄した人だという。そうだ。私は四十数年間、カメラを掛けて光と風の中をさまよった」
 「『どうか酒を飲まず、一日でもしらふで家に帰って』と言っていた彼女は逝き、私はまだしらふではない。朝、カメラを掛けて海辺と野原をさまよえば酒からさめ、夕方には酔っている」
 「『あなたが世界的な作家になるよう助けたい』と言っていた彼女が今は少し慰められるだろう。女房がこう言うだろう。『もうあきらめた』と。そうよくあきらめた。それでこそ(君が)『安らかに休むことができるじゃないか』」。写真が家庭から裵を奪ったのかもしれない。でも、裵は今も、光と風の中をさまよい杯を傾ける。(文・写真 平井久志、文中敬称略)=2010年01月27日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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ソウルの国立現代美術館で開かれた「裵炳雨展」の会場で、サインをもらうため長い列をつくるファン

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