思想の転換や民主化に一助

繰り返された解職と投獄  家族に「申し訳なかった」

 「個人的には、私の本を読んだ若者に問題意識を抱かせ、刑務所まで行った者もいて申し訳ないという気持ちがある。その一方で、知識人として、ある時期の歴史的な思想転換に、それなりの役割を果たしたと思う」
 李泳禧(リ・ヨンヒ)(80)は1970年代から80年代に掛け、韓国の社会意識を持った若者に最も影響を与えた知識人だ。保守勢力からは左派知識人の代表と批判を受けてもいる。
 李の人生は「文章を書くことは偶像に挑戦する行為だ。それはいつも、どこでも、苦痛を甘受しなければならない」という自身の言葉を実践したものだった。
 50年に得意の英語を生かし高校の英語教師に。だが、同年に朝鮮戦争が起こり連絡将校として入隊。7年間の軍生活について「残酷でむごたらしいところだった」と述懐した。除隊後、合同通信の入社試験を受け、記者に。外信部、政治部で活躍し、64年に朝鮮日報からスカウトされた。
 だが、同年、国連総会に韓国と北朝鮮が同時招待されるという記事を書き、反共法違反で逮捕され、二審で宣告猶予となった。ベトナム戦争に関し政府の意向をくんだ記事を書くよう要求されたが拒否、69年に朝鮮日報を解職された。
 「国民をだまして月給をもらうインテリでなく労働者で生きようとしたが、食べていくためにまた合同通信に戻った」
 しかし、71年に朴正熙(パク・チョンヒ)政権の大学弾圧などに反対する「64人知識人宣言」に名を連ね、合同通信も解職された。
 翌72年に漢陽大学新聞放送学科助教授に。74年には朴政権の維新体制に反対する「民主回復国民会議」に参加。76年、第1次教授再任用法で教授職を解任された。
 77年に「転換時代の論理」「偶像と理性」「8億人との対話」などの著書の内容が反共法違反に問われ逮捕された。
 母の崔晞姐(チェ・ヒジョ)が「(息子は)どこに行ったんだ」と尋ね、妻の尹英子(ユン・ヨンジャ)(77)は「学生を連れて済州島へ行ったけど嵐に遭って帰ってこられない」とうそをついた。
 西大門教導所(刑務所)で起訴された日に母が86歳で亡くなった。同じ教導所にいた詩人、金芝河(キム・ジハ)が留置金でキャンディーを買って送ってくれ、獄中で1人、母を弔った。
 79年12月27日朝。学生の収監者が李に「朴正熙が死んだ」と知らせてくれた。「人間が出来た人なら、それを聞いても、自分の感情を抑制しなければならないのだろうけど、抑制できなかった。涙と笑いが繰り返し込み上げてきた。小人(しょうにん)なんですね」
 80年に出所し、漢陽大教授に復職したが、5月に光州事件が起こり「背後操縦者」の1人とされて再び逮捕された。7月に釈放されるが、漢陽大を再び解職。
 87年の民主化運動で韓国の状況は大きく変わる

が、89年に「ハンギョレ新聞」の北朝鮮取材計画に関連し国家保安法違反容疑で逮捕され160日間拘束。
 李は現在、京畿道の25階建てアパートの19階に住むが、韓国では珍しく部屋に表札を掛けている。「軍隊でも、刑務所でも人間に名前はなく番号だ。番号は非人格的で、侮辱的で、国家権力の弾圧の表示だ。番号で呼ばれる自分が嫌で、表札を掛けてある」
 李は知識人として過酷な半生を送ったが、家族に対し「申し訳なかった」と語る。79年に光州刑務所にいた時に、軍にいた長男から「大学生になってようやくアボジ(父)の考えが分かって来たが、それまではアボジは怖くて憎い対象だった」と正直な心情を書いた手紙を受け取った。
 「刑務所の中でずいぶん泣いた。外でどんなに大きなことをしていても家の中ではやさしい父親でなければならなかった。それを私は錯覚していた。社会の価値も 家族の土台の上にあるべきだ」
 李は「知識人とは何か」という問いに「社会全体と自分を一体化させる普遍的な価値に奉仕し、変革のため考え、行動し、社会の変化に自ら責任を負う者」と答えた。
 2000年11月に脳卒中に襲われ、右側半身をまひ。「そろそろ人生の締めくくりをする時期。20年以上の闘争が民主化をもたらし、自分が一助を果たしたことにある種の満足感はある」

兄と姉を北朝鮮に残し

53年ぶりに訪朝、甥と対面

 李泳禧(リ・ヨンヒ)(80)は1929年12月、現在の北朝鮮の中国との国境に近い平安北道朔州郡に生まれた。父は営林署に勤務、母は地主の娘で比較的裕福な家庭だった。
 5人兄弟の4番目だったが、朝鮮戦争を経ての南

北分断で、長兄と2番目の姉は北に、両親と残る兄弟は南にと生き別れになった。
 李はことし10月末から11月初めにかけ、脳卒中の後遺症の残る不自由な身を押して夫妻で日本へ来た。かつて共同通信ソウル支局長を務め、病床にある江口浩を見舞うためだった。昏睡(こんすい)状態だった江口が李の顔を見て一時的に意識を回復した。
 「江口が特派員の時、私は合同通信の外信部長で、酒も飲み、よく付き合ったが、彼には恩義がある」。李は江口がソウル勤務を終える時、北朝鮮に残った兄たちの消息を調べてくれと頼んだ。
 江口は日本で消息を調べ、74年にソウルへ出張した際に「兄は既に腸チフスで亡くなったが、息子は金日成総合大学を出て、よい暮らしをしている」と李に教えた。
 韓国の民主化が実現し、金大中(キム・デジュン)政権時代の98年11月に、53年ぶりに北朝鮮を訪問した。平壌の高麗ホテルで姉の息子と会った。「姉はその5年前に亡くなっていた。遅すぎた。おいは農業指導員をしており、当時の年齢は50歳代だったが、見かけは私より老けて見えた」
 「おいから、姉は北の新聞報道などで自分が南で大学教授をしていることを知っていたと聞いた。平壌からずいぶん離れた田舎にいたおいを捜し出し面会を実現させてくれたのは北朝鮮のそれなりの好意だったと思う」
 江口は11月15日、肺がんのため72歳で亡くなった。(文 平井久志、写真 金民熙、文中敬称略)=2009年12月09日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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自宅でインタビューに応じる李泳禧=韓国京畿道軍浦市

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