日中戦争時、平和訴え

ユーモアと庶民性持つ  北京在住、村上知行

 「繁華街の王府井(ワンフーチン)で待ち合わせて、映画を見たり、故宮近くの公園でボートをこいだり…」。麦莉(マリ)(89)=千葉県松戸市=は夫、村上知行(1899―1976)と北京で暮らした新婚時代の話になった途端、明るくおしゃべりになった。六十数年前、若いころの甘く切ない思い出だった。
 村上は戦後「三国志」「西遊記」など中国小説の翻訳で知られた。だが、日本軍の対中侵略が本格化する中、16年間、北京に暮らし、中国事情に詳しい作家、ジャーナリストとして日中の友好と平和を訴え、戦争に反対したことは、ほとんど知られていない。

温かいまなざし

 福岡・博多に生まれ、幼くして父を亡くし、商家の店員になった。小学校は中退。13歳の時、病気で右足を太ももから切断、以来義足を付けた。九州日報(現西日本新聞)の記者、新派劇団の座付き作者や芸者置き屋勤めを経て28歳で上海へ。
 30年から北京の路地裏の安アパートに住み、中国服を愛用して庶民の中に溶け込んだ。毎日、好きな芝居や寄席に通って中国語を覚え「トラック一杯の本」(麦莉)を読破した。朝鮮語やエスペラント語も独学でマスターした「努力の人」だ。
 アヘン中毒のやせ細った若妻、マージャンざんまいの住人、田舎者の書生、フランス帰りの教授…。随筆「北京十年」(42年)にはアパートの住人とのドタバタ劇をユーモアたっぷりに書いた。
 中国の庶民との、ほのぼのとした触れ合いを描きながら、さりげなく日中の人々の「平等」「融和」「共存」を読者に訴える手法だった。
 「戦争を通じて、ヒューマニズムをしっかりつかんだ人だと思う。夏目漱石に通じるユーモアのセンスもあった」。元立教大教授(日本近代文学)の石崎等は村上の業績を高く評価した。
 「わが同胞が、涙ぐましきまでに崇高な皇軍奮闘のニュースに胸躍らす傍ら、本書によって、明日の東洋、明日の日支両国に思いをはせんことを祈るのみである」。村上の著書「支那及び支那人」(38年)の序文だ。
 この本は、当時の北京を丹念に歩き、取材した上質のルポルタージュだった。京劇など伝統文化や封建制、男尊女卑、官僚腐敗、貧困を写真入りで生き生きと伝えた。
 アヘン窟(くつ)では自ら一服試しながら、恍惚(こうこつ)と横たわってアヘンを吸う客の様子を描写。こじきの少年と粗末な飯屋で食事をともにしながら、生活ぶりを取材する。そこには常に「弱者への温かいまなざし」があった。
 一時、読売新聞特派員を務めたが、37年、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件後に辞職した。当時、日本の新聞はみな戦争を後押ししており、村上は片棒を担ぐことを断固拒否したのだ。

歴史の証人

 日本軍による中国東北部への侵略戦争、満州事変が始まった31年9月18日の夜。村上は北京の盛り場の劇場で、京劇の名女形、梅蘭芳(メイランファン)の舞台を見ていた。そこに、たまたま東北軍閥の張学良が夫人とともに観劇に来る。芝居の途中、長身の男が「あたふたと駆けつけて、学良に何事か耳打ちした。途端に彼はすっくと立ち上がった」。事変勃発(ぼっぱつ)が伝えられた瞬間だ。
 盧溝橋事件の時は、毎晩のように北京市内に銃声が響き、日本人は公使館区域に避難した。だが、中国人妻(前妻)を持つ村上は同区域に入れず、近くの北京飯店に逃げ込む。村上は反戦の立場から「歴史的体験」を著書に記していった。
 46年5月、村上は引き揚げ船で、当時25歳だった麦莉と2歳の長女璐璐(ルル) を連れて必死の思いで帰国。3年後に次女莉莉(リリ)が生まれた。
 「夫は中国と中国人が大好きで、日本と中国が仲良くするように心から望んでいた。もし、戦争がなければ、ずっと北京に住んでいたでしょう」と麦莉はほほ笑んだ。
 76年3月、村上は自宅で、ナイフで首を切り、胸を突き、自ら波瀾(はらん)万丈の生涯を閉じた。心臓が悪かったが、繊細な中国文学者としての苦悩があったのかもしれない。麦莉は「読むと、また涙が出てしまうの」と言いながら遺書を見せてくれた。「とにかくマリは本当の小生の愛妻でした」。律義そうな小さな文字でこう書いてあった。

歴史小説にメッセージ

厳しい言論統制の時代

 言論統制が厳しくなった戦争末期、村上知行は歴史小説などに託して、反戦のメッセージを読者に伝えようとした。村上と交流のあった日本の左派知識人には弾圧を受けた人も少なくない。
 村上の「九・一八前後」(35年)は既に検閲による伏せ字が多く、「北京十年」(42年)を最後に現代中国に関する本の出版をやめ、「秦の始皇」(43年)など歴史物を執筆した。
 「龍興記」(44年)は清の太祖ヌルハチの生涯を「民族闘争」ととらえた歴史小説であり、暗に中国の抗日救国運動の盛り上がりを伝えた。
 左翼的な村上は元プロレタリア作家の立野信之と親しく、帰国後も付き合いがあった。ゾルゲ事件でスパイとして処刑された社会主義者、尾崎秀実ともわずかな接点があり、独立運動に携わった朝鮮民族の友人Kは中国で何者かに惨殺された。
 村上自身、ハングルを勉強しただけで在中国の「特高」から事情聴取を受けたり、「いわれない密告」もされた、と自著に記している。
 早大教授の山本武利(マスコミ史)によれば、当時、新聞は軍国主義を扇動して部数を拡張しており、言論弾圧は日増しに強まった。村上が新聞記者をやめフリーで執筆を続けた点について、山本は「立派なことだ。日本の主要な出版社から本を出せたのは、それだけの文筆力と力量があったからだろう」と述べた。(文 森保裕、文中敬称略)=2009年11月25日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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昔の街並みを残して再開発された北京・前門外の繁華街。この近くに、村上知行が通った劇場や寄席が数多くあった(撮影・森保裕)

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