「愛と平和」の願い込め

民族と国境を超えて  美人谷の“月の仙女”

 左手に持ったマイクを、口元からスーッと30センチほど離す。あごを美しく上げ、遠くを見つめ、低音から超高音に一気に歌い上げた。チベット民謡独特の歌唱方法「チベットフェイク」だ。5千メートル級の山々に囲まれた中国四川省の秘境「美人谷」生まれのチベット族歌手、alan(アラン)(22)。きゃしゃな体からは想像もつかない声量だ。 伸びやかな澄み切った声に、心が震えた。
 2009年7月25日、同省成都市。中国の初アルバム発表イベントがalanの誕生日に行われた。会場を埋めた約70人の若いファンが里帰りを喜びケーキや花束を次々に渡す。「なかなか中国に来てくれないから、やっと会えた。もう最高」。2007年11月のデビュー当初からのファン、李詩苑(り・しえん)(18)は感激で涙を流した。

衝撃の新人

 デビューのきっかけは、浜崎あゆみらが所属するエイベックス・グループが、06年夏に中国で行った新人発掘オーディション。3カ月間、各地で約4万人が参加したが、最終日の最後の一人がalanだった。他の出場者がドレスで着飾る中、軍服姿で登場。夏川りみの「涙そうそう」を、中国の伝統楽器、二胡を弾きながら歌いきった。
 当時の審査員の一人で、alanのプロデューサーを務める菊池一仁(31)は「まず衣装で驚いた。さらに日本語で歌ったのに中国人と思えないほど感情が込められていて衝撃だった」と振り返る。alanは「みんなは私の服を見て驚いたけど、私もほかの出場者の服を見て驚いた。学校の制服を着て行っただけなのに」と無邪気に笑う。16歳で親元を離れ、当時は、北京にある中国最高レベルの芸大、人民解放軍芸術学院の声楽科に通っていたのだ。
 優勝し日本に渡ったが道のりは厳しかった。デビュー曲「明日への讃歌」は最低目標のオリコンランキング50位に届かず69位。次曲も100位に終わった。慣れぬ生活や日本語の勉強に疲れ、周囲の期待にも応えられず、一番つらい日々だった。
 だが映画「レッドクリフ」2部作の主題歌を歌う大役に抜てきされ、映画の大ヒットで転機を迎えた。前編の主題歌はオリコン23位、後編の「久遠の河」は3位に躍進した。今回のイベントはこの勢いも駆った“凱旋(がいせん)帰国”。ところが日本とは別の難題が待ち構えていた。

漢族との対立

 08年3月、チベット自治区ラサで起きた大規模な暴動だ。チベットの宗教や文化が尊重されない不満、経済発展の利益が漢族に集中する不公平感。チベット族の僧侶や民衆が、日ごろの鬱屈(うっくつ)した思いを爆発させたのだ。事件は、根深く存在していた漢族とチベット族の感情的対立をさらにあおり、暴動後、

ネットにはチベット族への誹謗(ひぼう)中傷があふれた。

 中国でのCD宣伝活動時も「チベットフェイクを歌えるのはチベット族だけ。チベット族として誇りに思う」と胸を張るalan。しかしエイベックスの中国法人の広報担当、劉鋭(りゅう・えい)(27)は「敏感な事件で(民族対立をあおる)一部の悪意ある人に利用されたくないから『チベット族』と、あまり強調しないようにしている」と明かす。
 チベット民謡歌手だったalanの母、アルジェンジョマ(58)は「とてもかわいそう。もっとチベット族らしい歌を歌えればいいのに」と顔を曇らせた。だがalanは「政治的なことにはかかわらない。チベット族だと、わざわざ強調する必要も隠す必要もない。私は歌手だから、ただ歌うだけよ」と明快だ。
 幼くして美人の産地と誉れの高いチベット族の村を出た。二胡を学びに成都へ出て通った中学では、漢族名ばかりの名簿にチベット族名を見つけた先生に「これ誰」と指された。芸術学院では唯一のチベット族。日本に行けば中国人。だからこそ民族や国境を超えた「愛と平和」を信条に歌うと心に決めていた。「音楽には中国人も日本人も、漢族もチベット族もないでしょ」
 本名、アランダワジョマ。チベット語で「月の仙女」(ダワジョマ)の名を持つalan。「世界平和が、ただのおとぎ話にならないように」とのデビュー時からの願いを込めて歌い続ける。

ゆったり時流れる秘境 出稼ぎで若者流出

 切り立ったがけに、車1台がようやく通れる

幅の道路が延々続く。連日の雨であちこち崩れ、直径3メートルもある岩が脇に転がる。一瞬の運転ミスで谷底の激流に転げ落ちるのは確実だ。中国四川省成都市から車で約9時間。同省カンゼ・チベット族自治州の「美人谷」にたどり着くと、チベットの民族衣装を着た村人がみな飛び切りの笑顔で迎えてくれた。
 石を積み上げ、すき間を泥で固めて造り上げたチベット独特の家が立ち並ぶ。1年以上も前の四川大地震で壊れた家を村人が総出で修理していた。完成まで家主は友人宅に身を寄せる。互いに助け合い、ゆったりと時が流れていた。
 生活は決して豊かとは言えない。平地はほとんどなく、がけを開拓したわずかな耕地で栽培するトウモロコシが唯一の収入源。その暮らしの精神的な支えがチベット仏教だ。家には祭壇が設けられ、体を地面に投げ伏す独特の祈り方「五体投地」を長年繰り返した祭壇前の石の床は、すり減り黒光りしていた。
 だが中国の経済発展で生活は激変。美人谷でも、約10年前に近隣の街へつながる舗装道路が完成すると、大半の若者が農村を捨てた。「美人はみな上海や広州へ出稼ぎに行ってしまったわ」。自身も出稼ぎから帰ったばかりのジャンチュラム(21)がかわいい笑みを浮かべながら、こっそり明かした。(文 芹田晋一郎、写真 岩崎稔、文中敬称略)=2009年09月16日 

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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中国四川省カンゼ・チベット族自治州の「美人谷」に住む一家。右から出稼ぎから帰ったばかりのジャンチュラム、その祖母と母

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