あの青い空、港での別れ

引き揚げから30年後に再会  娘は修道女の道に

 熱帯の草木に大粒の雨が注ぐ。自宅の床に足を投げ出し、91歳のエダゲル・ギラシボンは柔らかな笑みを浮かべて言った。「瀬戸物の食器の上に魚や漬物を並べ、みそ汁も作った。まずいってよく文句を言われたけどね」。一緒に暮らした日本人男性がパラオを去ってから60年以上がたった。
 日本占領下の1917年、パラオ最大の町コロール近郊アイライの農家に生まれた。日本がつくったパラオ人向けの学校で習った日本語を流ちょうに話す。「内地や沖縄から大勢の日本人が来た。店を開く人もいれば、畑仕事をする人もいた」
 兵庫県からの移民で大工だった彼とは41年に出会った。「彼は40代。年も離れてたから、あまり乗り気じゃなかった。でも、姉の夫の紹介だから断れなくて」
 海に面したコロールの家で同居を始めたが、一緒に外へ出かけることはほとんどなかった。「周りの目があったから。肌の黒いパラオ人と日本人のカップルはよく思われず、役所に結婚も届けられなかった」。42年に長女ヨウコ、45年には次女カズエが生まれた。
 彼は小舟を買い、しばしばヨウコと海へ出かけた。「苦労もあったけど、大事にしてもらった。ずっと一緒に暮らすと思っていた」

彼の目にも涙

 しかし、太平洋の戦火は島にも及び、米軍は44年からパラオを空襲。エダゲルたちは隣の島へ逃げ、食料難の中を生き延びた。45年8月に終戦、9月には在留邦人の引き揚げが始まった。
 「一緒に日本へ行こう」。彼は言ったが、両親を島に残して日本で暮らす決心はつかなかった。46年初め、彼を港で見送った。ヨウコは「お父さんと舟で魚取りに行く」と泣きじゃくった。彼も涙を流していた。「天気がいい日でね。青い空と海。よく覚えている」
 生後間もなく父と別れたカズエは、エダゲルが数年後にパラオ人男性と結婚すると、一人だけ祖父母に預けられた。家族のきずなを知ることなく育ち、「父はどんな人だろうと空想ばかりしていた」。9歳のときに姉ヨウコと行ったコロールのカトリック教会で「初めてやすらぎを覚えた」。
 カトリック系高校に進み、修道女を志した。「国外での仕事もあるし、父に会えるのではと思った」。年ごろになっても異性に関心を持てず、夢中で恋人の話をするヨウコにも「いなくなって悲しい思いをするだけよ」とつれなく言った。
 修道女になり、グアムなど太平洋の島を転々としているとき、知人を通じて父の居場所を知った。「恥ずかしくて今さら会いたくない」と渋る母エダゲルを説得し、76年に二人で日本を訪れた。
 期待と不安で緊張した30年ぶりの父との再会。だが、空港で出迎えた父の姿を見ても、なぜか何も感じなかった。

「喜びも、いとしさもない。それまでの思いは何だったんだろう」。父も、まるで他人のようにカズエにおじぎをした。

思いに区切り

 父には新しい家族がいた。東京都内の父の自宅で一緒に過ごすうち、怒りがこみ上げてきた。「結局、私たちは捨てられたんだ」。幼少時からの寂しさや葛藤(かっとう)を伝えたかったが、言葉も通じない。「わたしたちのこと、どう思っているのか聞いて」。そう何度も詰め寄るカズエを、エダゲルは「そんなこと聞くもんじゃない」となだめた。
 初めて父と過ごした3週間。父は箱根や富士山に連れて行ってくれた。「気遣いを受け入れようとしたけど、心から楽しめなくて」。修道院に戻ってしばらくすると、父から母に手紙が届いた。「あの子には修道女になってほしくなかった」
 こう記した父に、手紙できっぱりと告げた。「わたしの決意は変わりません」。父は自分の一部ではない。私たちは別々の人間なのだ―。引きずっていた思いに区切りがついた気がした。80年代初めに父が亡くなると、カズエは修道院の一室で長い祈りをささげた。
 ヨウコは2006年に他界、63歳になったカズエは地元の高校で宗教を教えながらエダゲルの世話をする。「時代の中で家族の形がゆがんだけど、仕方がないこと。わたしも母も受け入れるしかなかった」。カズエは胸元に光るキリスト像のペンダントにそっと手を添えた。

かつて南洋群島統治の中心 高齢者は今も日本語が達者

 太平洋の島国パラオは、1885年にスペインの支配下に置かれ、国民の約半数はカトリック教徒。カズエが幼少時に通ったのは、スペイン時代に設立されたコロールの古い教会だ。
 ドイツの支配を経て、日本は1914年にパラオを占領、20年には国際連盟から委任統治を認められた。22年に南洋庁がコロールに設置され、南洋群島統治の中心となった。日本からパラオへの移民も急増、23年に約650人だった日本人は、43年には2万5千人を超え、居住者の7割以上を占めることになった。
 「コロールの町には日本語の看板を掲げた店が並んで、にぎやかだったよ」とエダゲルは当時を振り返る。パラオ人向けの学校では、授業の約半分が日本語教育にあてられた。「デンワ」など今もパラオ語の中に残る日本語は多く、70代後半以上の高齢者は日本語を達者に話す。
 太平洋戦争中、日本はパラオに海軍基地を築いた。エダゲルと一緒に暮らした日本人男性も「海軍の格納庫を建てるなどの仕事をしていた。軍属扱いで、配給の米も民間よりいい物をもらえた」という。
 戦争はパラオにも傷跡を残し、終戦で多くの離散家族が生まれたが、人々の対日感情はいい。カズエは「日系人が多いし、戦後は差別を受けることもなかった」と話す。(文 田島秀則、写真 村山幸親、文中敬称略)=2009年09月09日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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自宅で食事するエダゲル(右)とカズエ。メニューは地元で売っている福神漬けにみそ汁、ご飯だった=パラオ・コロール近郊

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