援護の枠外で半世紀の苦難

被爆の日本人義母とともに 引き揚げで「言葉」の壁も

 韓国の慶尚南道陜川(ハプチョン)郡陜川は「韓国のヒロシマ」と言われる。日本の植民地支配時代、陜川出身者が多数、広島へ渡り、1945年8月6日に被爆。その後、故郷に帰国した在韓被爆者が多数、居住するためだ。
 赤十字陜川原爆被害者福祉会館に暮らす柳永秀(ユ・ヨンス)(76)、沈栄子(シム・ヨンジャ)(70)夫妻も広島で被爆した。
 二人が他の在韓被爆者と少し事情が異なるのは2006年10月に85歳で亡くなった沈栄子の母が韓国で生きた日本人被爆者、久保ミサエであったことかもしれない。
 久保は鹿児島県の裕福な家に生まれたが、広島市内で助産婦の見習いをしていた。18歳の時に夜道で不良に絡まれ、「西村松男」と名乗っていた朝鮮半島出身の沈位城(シム・ウィソン)に助けられた。沈は不良の振り回した刃物で右目を失明。久保は沈の看病の間に恋に陥り結婚。父は朝鮮人との結婚に反対し親子の縁を切ると言った。
 沈位城には同じ陜川出身の柳元出(ユ・ウォンチュル)という親友がいた。45年8月6日、広島に原爆が投下され、沈と柳の2家族も原爆の被害に見舞われた。
 沈位城と久保ミサエの一家4人は広島市福島町で被爆したが、4人とも一命を取り留めた。
 柳夫妻らは佐伯郡にいて無事だったが、長男が鉄道に勤務、爆心地に近い広島駅で機関車を誘導していて吹き飛ばされ重傷を負った。次男の柳永秀は中学へ登校途中、己斐(こい)駅にいた。「ピカーッと稲妻が光り爆発音がして耳が聞こえなくなり空が暗くなった。本能的に電車の車体の下にもぐり込んだ」。

帰国

 沈、柳両家族は帰国を決意した。沈一家4人がまず帰郷した。柳一家では、長男を捜しに広島市内に入った時に水道の水を飲んだ母は吐血、下痢を続け、10月6日に39歳で死亡した。柳一家6人は四男が母の遺骨を胸に抱き、数々の苦難の末に45年末に故郷へ戻った。
 日本からの引き揚げ者にとって最大の苦労は「言葉」の壁だった。日本育ちで韓国語はまったくできなかった。若い柳永秀や沈栄子はそれでも韓国語をマスターしたが、久保ミサエの苦労は並大抵ではなかった。柳永秀は「義母は最後まで韓国語は片言で、長く韓国にいて日本語もぎこちなくなってしまった」と振り返る。
 柳永秀の兄は帰国後、被爆の後遺症で5年間寝込んだ末に23歳で死亡した。
 柳永秀は新聞配達をしながら夜間中学に通った。50年10月に軍に入隊したが、休暇を取り帰宅すると18歳の沈栄子がいた。父は「おまえたちが幼い時に親同士が約束したことだ。結婚しなさい」と言う。二人は「親が決めたことに反対できる状況じゃなかった」という。

 柳は26歳で軍を除隊し、陜川で司法書士に就いた。久保の夫、沈位城は被爆のせいか50年ごろからたびたび腹痛など胃腸の異常を訴え、長い闘病の果て69年12月に亡くなった。夫を失った久保は日本での経験を生かし、助産婦として陜川で生きていった。

逆「創氏改名」

 久保ミサエは韓国籍を取得したが名前はそのままだった。約30年前、陜川当局から韓国名に変えろと「逆創氏改名」の圧力が掛かった。柳永秀は法律は日本名に変えた韓国人が韓国名に戻すようにというもので、日本人に創氏改名を求めるものではないと抗議し「久保ミサエ」の名前を守った。
 その後、日本へ出稼ぎに行った長男の死、次女の精神障害、次男の病気と、異郷の地で久保の苦難が続いた。
 柳永秀は65歳の時に脳梗塞(こうそく)に襲われ司法書士を辞し、韓国原爆被害者協会の役員をするなど運動に取り組み出した。柳永秀は97年5月に、久保と沈栄子は01年7月に被爆者手帳を入手した。
 久保は03年初めに陜川原爆被害者福祉会館に入所したが、04年9月30日に倒れ、意識も回復しないまま06年10月14日、韓国の地で永眠した。
 柳永秀、沈栄子夫婦は久保が亡くなった後に福祉会館へ入所した。
 在韓被爆者は半世紀以上、被爆者援護の枠組みの外に置かれた。柳は「早く日本人と同じ援護を受けたかったが放置されて来た。悔しい。今、起こしてる慰謝料請求訴訟は政治の誤りを確認するためだ」と語った。

2438人が慰謝料請求

支援の日本市民に感謝

 日本国外にいることを理由に被爆者援護法に基づく健康管理手当を打ち切られるなどしたとして、在韓被爆者2142人を含む在外被爆者2438人が日本政府に対し、1人当たり120万円の慰謝料を求める集団訴訟を広島、長崎、大阪の3地裁に提訴している。
 「日本人被爆者と同じ援護」を求めて在韓被爆者は日本政府を相手に訴訟を起こし、勝訴を積み重ねながら制度変更を勝ち取って来た。しかし、その間に半世紀以上の歳月が流れ、多くの被爆者は援護も受けず亡くなって行った。
 孫振斗(ソン・ジンド)は1972年に、外国人被爆者にも被爆者手帳の交付をと求めて提訴し78年に最高裁で勝訴。しかし、被爆者手帳を取得しても日本国外に出れば手当を受け取れなかった。
 郭貴勲(カク・キフン)が98年に国外に出ると手当を打ち切るのは不当と提訴し、2002年に全面勝訴。在韓被爆者に03年9月から手当の支給が始まった。
 柳永秀(ユ・ヨンス)や沈栄子(シム・ヨンジャ)らは援護が遅れ、本来は受け取ることの出来た手当を受け取れなかったことへの慰謝料を求めて提訴した。
 柳は、在韓被爆者の支援運動を続けてきた「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」(市場淳子会長)など日本の市民運動に対し、「自分が韓国人でも、被爆者でもないのに、堂々と闘う姿を見ると本当に勇敢で立派な人たちだと思う」と感謝の言葉を惜しまない。(文 平井久志、写真 有吉叔裕、文中敬称略)=2009年07月22日

 

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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故久保ミサエ(右の写真)と赤十字陜川原爆被害者福祉会館でゲームに興じる在韓被爆者

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