日中友好にささげた生涯

国交40年の危機に心痛  西園寺公一の秘書役

 「日中の先人たちが苦労して築き上げてきた友好関係が崩壊の危機にある。かけがえのない関係を立て直したい」南村志郎(83)は北京の自宅マンションで静かに語った。傘寿をとうに過ぎたが、かくしゃくとした白髪の紳士だ。愛用のパイプがよく似合う。

周恩来の魅力

 1960年代初め、友好商社員として北京に滞在中、西園寺公一と出会って意気投合、西園寺の秘書役として日中友好の道を歩んできた。
 西園寺は、戦前に首相、元老だった西園寺公望の孫だ。中国の首相、周恩来と親しく、周から「民間大使」として招かれて北京で対日窓口を務めていた。「西園寺—周ライン」は日中間の太いパイプで、南村は西園寺とともに周とよく会って話した。
 「当時の指導者の中でも周総理は飛び抜けて包容力があり、人間的な魅力にあふれていた。暮らしぶりは質素で、西園寺は敬愛する周総理にならって、古い下着につぎを当てて着ていた」
 中国大連で生まれ、中学生の時に北京で終戦を迎えた。帰国後、東京外大(中国語学科)に入ったが、左翼学生運動を指揮して退学処分に。鉄鋼業界通信社の記者を経て友好商社に入った。
 日中の歴史を思う時、南村には忘れられない記憶が二つある。
 56年10月、北京で開かれた日本製品の展覧会場前で、年老いた女性が日の丸を掲げた旗ざおにしがみついて泣き叫んでいた。「息子は日本軍に殺された。新中国になったのになぜこの旗が翻っているの」
 周りにいた人々が同じ思いで女性を見詰めていた。戦後初めて中国を訪れた20代の南村は「戦争被害者の痛みを思い知った」と言う。
 60年代初め、中国の指導者の一人が日本からの訪中団との会談で「加害者(日本)は過去を忘れまいとし、被害者(中国)が忘れようとすれば将来の日中は明るい」と話した。南村はその寛容さに感動した。
 「今はまったく逆だ。正しい歴史認識は日中関係の基礎であり、指導者が言った原点に立ち戻らなければならない」

 国交正常化40周年を迎えた今年、両国は尖閣諸島をめぐって、これまでになく激しい対立を繰り広げている。“日中の懸け橋”として生きてきた南村にとって、身を切られるようなつらさだ。
 「政治家同士のパイプがない。後藤田正晴や野中広務を最後に中国と太いパイプを持つ後継者が育っていない」と南村。
 国交正常化の前は、西園寺事務所として、三木武夫(後に首相)の訪中、周との会談をセットしたこともあった。「西園寺—周」のパイプを補佐してきた南村には、今の日中間の意思疎通の欠如がとても危うく映る。

ボランティア

 「両国民の感情も悪化する一方。民間友好の立て直しが必要だ。日中の相互理解を促すために何かしなければ…」
 93年に西園寺が死去。南村は西園寺事務所に活動資金を提供してきた船会社の社長を長年務めてきたが、96年に同社を解散した。以来「ボランティア」として手弁当で中国の友人たちと友好事業を手掛ける。
 2006年から毎年1回、日本の記者・学者を招く中日友好協会のプログラムに協力。07年から2年間、天津科技大学で開いた「日中友好交流講座」を企画した。
 2012年7月、秋田県と天津市が調印した交流計画もサポートした。
 横浜に家があるが、1年の半分以上は妻恵津子(81)と北京で暮らす。糖尿病のため自分でインスリンを注射し、会議や出張で忙しい毎日だ。
 「責任感が強くとても頼りになる人。昔は亭主関白でしたが、それを変えてくれたのが、中国の文化大革命でした」。ユーモアを交えて話す恵津子も若々しい。
 南村は中国を知るからこそ、見る目も厳しい。
 「官僚の腐敗はあまりにもひどい。『このままだと共産党は政権を失い、また革命根拠地、井岡山からやり直しだぞ』と中国の友人たちに言ってやりました」。昭和ひとけた生まれの気骨にあふれた言葉だ。

ライン

 林彪事件いち早く知る 後藤田に中国の意向伝達も 

 南村志郎は、中国の歴史的な事件や日中関係史の舞台裏を見聞きしてきた。中国で文化大革命中の1971年9月13日に起きた林彪事件については、発生後まもなく概要を知った。
 林彪国防相らが最高指導者、毛沢東の暗殺に失敗して航空機でソ連逃亡を図り、モンゴルで墜落死したとされる事件だ。
 南村は西園寺公一と中国東北部を旅行中だった。事件直後に大連に着いたところ、市当局から「今晩の宴会では林彪に触れないでほしい」と言われた。当時の宴会では、毛沢東と後継者の林彪をたたえるあいさつがお決まりだった。
 南村は「発生から2、3日後」に北京に戻り、事件の正確な概要を確認。知り合いの日本人記者に「オフレコで」教えた。記者は自ら確証が得られず“世紀の大特ダネ”は報道されなかった。
 98年11月、国家主席だった江沢民が来日時、日中共同宣言に合意した。来日に先立ち、中国側は戦争について、日本の「おわび」を宣言に盛り込むよう強く求めていた。
 南村は中国指導部の意を受けて北京から後藤田正晴に電話し、要求を伝えた。後藤田は首相の小渕恵三に会って確認したが、小渕は「天皇が既に謝罪済みだ」として考えを変えなかったという。
 「おわび」が盛り込まれなかったことに不満を持った江は来日中、何度も歴史問題に言及、日本の対中感情は冷え込んだ。(文 森保裕、写真 佐渡多真子、文中敬称略)=2012年10月24日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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北京の自宅マンションで、中国との関わりについて話す南村志郎。戦争末期には学徒動員で北京市内の日本軍弾薬庫の警備をした。夜は近くの山の下に共産党ゲリラ、八路軍のたき火が見えて怖かったという