おいしくて健康な牛を 

穀物飼料、農薬は拒否 外交官の妻から転身

 ひと口かむと、ほのかな草の香りとともに濃厚な肉汁が広がる。タンのコリコリとした歯応えはまた格別だ。マーサ・ホールドリッジ(85)が育てた牛は、赤身が多く弾力のある肉質が特徴で、脂の乗った霜降り肉だけが最高の牛肉—などというこれまでの思い込みは一変してしまう。
 「トウモロコシなどの穀物飼料や抗生物質、ホルモン剤は一切与えない。牧草地に農薬をまくこともしない。金銭的には割が合わないかもしれないけど、私はこうやって育てたいの」。マーサが味の“秘密”を明かす。

穀物肥育に反発

 米国では、肉牛を早く太らせるために、食肉処理までの数カ月間はカロリーが高いトウモロコシなどの穀物が主成分の飼料を与えるのが主流だ。また、病気の予防や成長促進のために薬剤を使うことも多い。
 だが、「牛は本来、草を食べる反すう動物。効率よく消化するために胃がたくさんあるのよ」とマーサ。「本来の食べ物ではない穀物を与えれば病気になりやすくなるし、病気を防ぐために抗生物質を与えることになる。穀物を育てるには大量のエネルギーが必要だし、環境にもよくないわ」
 もっと肉のことを知りたくなり、マーサが所有するウェストバージニア州の「ウェストウィンド牧場」を訪ねた。
 標高千メートル程度のなだらかな山々が2千キロ以上にわたって連なる米東部のアパラチア山脈の一角、山の斜面を利用した40ヘクタールほどの小さな牧場には20頭ほどの牛が寄り添い、のんびりと膝くらいまで伸びた緑色の牧草をはんでいる。辺りには小鳥のさえずり声が響く。
 11年前に亡くなった夫のジョンは、中国問題の専門家としてキッシンジャー国務長官の下で働き、レーガン政権時代にはアジア・太平洋担当の国務次官補を務めたエリート外交官だった。海外生活が長く農業とは 無縁 だったマーサに転機が訪れたのは、60歳を前にした1979年のことだ。
 アマチュア天文家でもあり、星を観測しながら休暇を過ごせる土地を探していたジョンが、広告で見た山小屋付きのこの土地をひと目で気に入って購入。

これを機にマーサは子牛を数頭購入し、近所の住民の協力を得て小さな牧場を始めた。

試行錯誤の末に

 自宅のあるワシントンから車で5時間かけて月に数回往復する。「思いがけず農業を始めることになった」と笑うマーサだが、微熱に悩まされた経験から“健康と食”には強い関心があった。
 「健康で、人の体に良くて、環境にも優しい牛を育てたい」。こんな思いで、全米各地で開かれる有機農業の研究会に参加したり、著名な農家を訪問したりして一から牛の育成法を学んだ。
 試行錯誤の末にたどり着いたのが、牧草地をいくつかの区画に分けて、毎日餌場となる牧草地を変えながら牛を育てる「 輪換 (りんかん) 放牧」といわれる手法だった。
 利用しない期間を設けて牧草が育つ時間を確保することで、牧草が安定的に確保できる。牧草が光合成で吸収した二酸化炭素(CO2 )が有機物として土の中にたまりやすくなり、地球温暖化対策としての利点もある。
 牧場の土に含まれる有機物も2004年から07年にかけて倍増したことが調査で判明した。マーサは「私の土地がCO2を吸収するなんて、素晴らしいでしょ」と喜ぶ。
 牧草で育てた牛は、「体に良い」とされる種類の脂肪酸を多く含むことなどから人気が高まった。同じような育て方をする農家は10年前には50軒ほどだったが、今では千軒以上に。マーサは有機農法の伝道師として、娘が作ったスライドやパネルを手に、牧草で育てることの大切さを地元の大学などで講演した。
 牧場を始めて約30年。「いつかはやめないといけないかもしれないけど、自分がやっていることがとても大事だと思っているから続けられる。幸い、多くの人がおいしいと言ってくれるし、健康への利点も理解してくれ、産業界を変えるほどの動きになった。それがとてもうれしいの」。朝日が差す牧場の簡素な山小屋でマーサは目を細めた。

ライン

持続可能な育成法が課題 環境負荷の大きい牛肉 

 肉牛を穀物飼料で育てることによる環境への負荷は非常に大きい。エネルギー価格の高騰や地球温暖化など新たな問題が浮上しており、より持続可能な育成法への移行が求められている。
 飼料となる穀物や大豆の栽培には、地下水をポンプでくみ上げたり、化学肥料を生産したりするのに大量のエネルギーを使う。米ナショナルジオグラフィック誌などによると、穀物で育てた場合、牛1頭が成長するまでに約千リットルのガソリンを使う。これに対して、マーサ・ホールドリッジは「牧草だけで育てれば約75リットルですむ」と言う。
 飼育に必要な穀物の量は肉の種類によって異なる。鶏肉1キロをつくるのに必要な穀物量は2キロ、豚肉は4キロなのに対し、牛肉は8キロにもなる。
 人口増加や新興国の経済成長で肉を食べる人が増えれば、今後は穀物価格の上昇が予想される。国際食糧政策研究所の試算では、2050年にはトウモロコシとコメで10年水準の1・5倍、小麦はほぼ1・3倍になる。
 温暖化による穀物の減収も考慮すると、トウモロコシ価格は2倍超となり、この結果、牛肉価格が上昇するだけでなく、人間の食糧としての穀物が不足する恐れもある。
 同研究所のトム・アーノルドは「十分な食糧を確保するために土地やエネルギーへの負荷を下げなければならない」と警告する。(文 池内孝夫、写真 鍋島明子、文中敬称略)=2012年10月31日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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草が伸びた山中の牧場で育てられる肉牛。赤身が多く弾力のある肉質は、ひと口かむと口の中に濃厚な肉汁が広がるのが特徴だ=米ウェストバージニア州