私は一体…

近くて遠い「祖父の母国」 残留日系人、自立の道も

 差し出されたL字形の金属定規に、顔も知らない祖父のぬくもりを感じた。定規には「大阪」の刻印。本名も出身地も分からない。それでも興奮し握る手が震えた。「祖父の形見、日系人の証しをやっと手に入れた」。戦後60年の年、祖父の大工道具を父の親戚から手渡された時の思いは深く胸に刻まれている。
 フィリピン南部ミンダナオ島ダバオには太平洋戦争前から多くの日本人が入植した。日本人男性と現地女性の間に生まれ、戦後取り残されたのが残留日系人だ。昨年までダバオのフィリピン日系人会会長を務めた3世のジュセブン・オステロ(42)がとつとつと語る。

ハポンの子

 定規は、父メラニオ(70)が日本国籍取得を求め東京家裁に申し立てた証拠として提出。戦前、戦中に大工や麻農園の作業員をしていた祖父「タクミ」を知る多数の知人の陳述書も添えた。だが東京家裁は昨年「遺品と認められない」と判断、即時抗告した東京高裁も「『タクミ』が名字か名前かも不明」と退けた。
 日本国籍取得を申し立てられるのは2世だけだ。「自分は一体何者なのか」という思いに駆られたジュセブンが父に託した訴えは通らなかった。
 タクミは戦後、ダバオ郊外の日本人収容所で亡くなったとされる。死亡年月日は不明、遺骨も祖母との結婚証明書もない。タクミが残した書類や写真は1960年代半ばに焼失、祖母も85年に死亡した。「なぜ祖母から話を聞いておかなかったのか」。父を責めたが、父は今も「悔いが残る」と言葉少なだ。
 「ハポンの子はハポンに帰れ」。幼いころからいじめられた。ダバオから車で90分のコンポステラバレー州マビニの実家の裏は今もヤシが茂る子供の遊び場だ。幼心に「日本人は戦時中フィリピン人を虐殺した」との思いは強く、日系人と言われるのを嫌悪していた。

 戦前や戦中に約3万人の日本人がフィリピンに移住、戦後、残された2世は約3千人ともいわれる。戦後は強い反日感情もあり、日本人や日系人であることを隠し山奥で暮らす人も多かった。祖母も一時、子供たちを抱えて山中に逃げた。
 「殺されないために戸籍を焼き、祖国を捨てた」。2世の身元調査や国籍取得を支援するNPO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」(東京)事務局長の猪俣典弘は残留日系人の苦難を語る。ダバオにフィリピン政府公認の日系人会ができたのは戦後35年、国籍取得の動きが本格化したのは90年代だ。

生きる糧

 ジュセブンの転機は大卒後の93年。父に言われて乗り気でなかった日本語を学んでいた。残留日系人を支援する日本人から日本留学を勧められ「初めての飛行機の旅がちょっと魅力」と応じた。
 東京に1年下宿。「日本人の勤勉さ、きれいな街並み。何より平和だった」。反政府ゲリラ活動が続くミンダナオとの差を痛感し「日本の負の側面しか見ず、日系人であることに負い目を感じていた自分を恥じた」
 帰国後、残留日系人の支援活動に。国内各地に足を運んで実態を調査、目にしたのは貧困に窮する2世の家族だった。「この人たちのために尽くそう」と2001年、3世では初めてダバオの日系人会会長に就任。2世の日本国籍取得に力を注ぐ一方「日本への出稼ぎに頼らない道」を模索、診療所やコンビニなど医療や経済活動も手掛けた。日本国籍を認められたり身元が判明したりした2世の子孫が次々と日本に出稼ぎする現実に「自立しないと将来に禍根を残す」との思いがある。
 そんなさなか、身内からこんな声が漏れてきた。「日系人として認められないのにリーダーなんておかしい」。寂しかった。仲間と思っていたのに…。10年間務めた会長を辞めた。
 フィリピン外務省は最近、父を含む51人を日系人として認めた。「もう一度、父の日本国籍取得を目指す」。日本の司法の壁が厚いのは知っている。でも「祖父の母国に日系人として認めてもらうのが生きる糧」とはにかむ。自分探しの旅は続く。

国籍取得「時間との闘い」

身元未判明、今も900人

 フィリピンの残留日系人2世の身元調査や日本国籍取得は、2世の高齢化に伴い「時間との闘い」になっている。特に、国籍取得は本人の裁判所への申し立てが条件のため2世が取得できなければ、3世以下の取得は不可能になる。
 NPO「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の集計によると、最近では2006年に2人の国籍取得が許可され、ピークの09年には29人が認められるなどこれまでに計65人(今年2月末現在)が取得した。
 同センターが03年から取り組む身元調査では、約650人の日本での身元が判明。日本の家族と再会するケースも増えているが、今も身元が分からない人は900人余りに上る。日本の資料だけでなく、米軍の捕虜名簿を活用するなど調査の幅を広げているが「証拠収集は年々困難になっている」のが実情だ。
 日本政府は「1956年に国交回復しており、自主的に帰国する機会はあった」としており、中国残留孤児への支援とは異なる対応を取ってきた。最近は外務省が断続的に実態調査をしている。
 同センター代表理事で弁護士の河合弘之は「海外で貧困や差別に苦しむ日本人がいたら援助の手を差し伸べるのは日本政府および国民として当然だ。その手段として日本国籍の取得は最も有効な手段の一つ」と訴えている。(文 三井潔、写真 村山幸親、文中敬称略)=2012年03月07日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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幼いころ遊んでいた実家の裏は今も、ヤシの木が生い茂り小川が流れる。「ここで石を投げられたりしていじめられたが、必ず拳でやり返した」とジュセブン。父メラニオ(左)と当時の思い出話に花を咲かせた=ミンダナオ島コンポステラバレー