ボリビア闘争に命ささげる

ゲバラの同志マエムラ  医師志したハバナで出会う

 その青年の写真を手に取った。切れ長のひとみ。結んだ口元。日本人の面影がやはりあった。
 青年の名は日系2世のボリビア人フレディ・マエムラ。ボリビア革命闘争のさなか、革命家チェ・ゲバラとともにボリビア政府軍に殺された「ゲバラの同志」37人の一人で、唯一の日系人だ。
 「フレディは口数が少なく、行動で物事を示した。酒もたばこもやらなかった。父とうり二つの性格だった」。ボリビアの主要都市ラパスに暮らす元新聞記者で姉のマリーナ(70)が話す。
 フレディの父、前村純吉は1893年、鹿児島県穎娃町(現南九州市)に生まれ、20歳のとき、単身でペルーに移住。農園での過酷な労働を経て、当時、ゴム栽培ブームでにぎわうアマゾン地域を目指し、アンデス山脈を歩いて越えた。その後、純吉はボリビア北部ベニ県トリニダで雑貨店を営み、持ち前の仕事熱心さで商売を広げ、16歳年下のボリビア人女性と結婚。1959年に亡くなるまでに3男2女を授かった。次男フレディは41年に生まれた。

市長の汚職を告発

 「人をだますな。学問に打ち込め。それが無口なおやじの背中から学んだことだった」。フレディの弟で検事のアンヘル(66)が打ち明ける。
 フレディは小中学校時代、病気になっても医師の診察すら受けられない級友たちの姿を見て育ち、17歳で共産党青年組織に加入。当時、汚職がまん延していたトリニダ市政に怒ったフレディは市長を汚職容疑で告発、投獄された。「正義感の強い男だった」。小学校からの同級生ウゴ・トゥドル(66)が振り返る。
 「人を助けられる仕事に就きたい」。若きゲバラと同じくフレディは医師を志した。59年に革命を実現したキューバは、中南米各国での医師らを養成する目的で留学生を募っていた。共産党での活動歴ゆえに国内では大学進学が危ぶまれていたフレディは「これしかない」と応募し、合格。62年、キューバに渡り、100人以上のボリビア人留学生の中でリーダー的存在となった。
 首都ハバナの医学校に入学した62年10月、米ソ冷戦は頂点に達し、核戦争突入の瀬戸際にあった。キューバは61年に米国と断交、米国が支援した反革命部隊の侵攻もあり、米国と真正面から敵対していた。「反帝国主義」のスローガンが響く中、キューバの海岸には高射砲が並んでいた。「留学生も軍事訓練を受けた。米国を相手に武器を手に戦うよう教えられた」。当時の学校関係者は明かす。

偽名で祖国に潜入

 東西緊張の「最前線」にいたフレディは、ハバナで毎週末、ゲバラが留学生らと開いていた学習会に参加。「寡頭(かとう)支配から中南米の解放」を

熱く説くゲバラの理想に祖国ボリビアの貧富の格差を思い重ねた。ハバナ郊外での秘密軍事訓練にも加わり、66年11月、祖国に偽名で潜入した。
 「フレディはゲリラ兵として天性の資質の持ち主だった。ジャングルでも迷わず前進できたし、太陽の位置から方位も読み取った」。部隊の数少ない生存者の一人、レオナルド・タマヨ(67)が証言する。ゲバラも67年5月に「犠牲と情熱の二重の証明がある」とフレディを高く評価するメモを残している。
 部隊は当初ボリビア政府軍を撃破したが、先住民らの支持は得られず、逆に政府軍へ密告された。ゲバラ本隊と分かれたフレディら別動隊は67年8月31日、渡河の最中に政府軍の待ち伏せ攻撃を受けた。
 タマヨによると、左腕に被弾して倒れたフレディに政府軍兵士は死んだ他のゲリラ兵の身元確認を要求。右腕をねじり折られてもフレディが拒み続けると、兵士はあおむけのフレディの全身に銃弾を浴びせた。「神の名において死に向かう」。フレディはそう言いながら絶命した。25歳だった。日本が高度経済成長にわいていたころだ。
 「弟はボリビア社会を良くしたいとの信念に忠実に生きた。革命に身をささげ『社会のための医師』を目指した。今も家族の誇りです」。姉マリーナは目頭を押さえながら言葉を継いだ。
 フレディの遺骨はキューバ・サンタクララのゲバラ霊廟に仲間とともに眠っている。

編集後記

左派政権下で評価変わる

 アルゼンチン人医師のエルネスト・チェ・ゲバラは1959年のキューバ革命後、路線の違いから

フィデル・カストロと決別、キューバ閣僚の地位も投げ捨てて「革命輸出」を目指し、66年からボリビアでゲリラ闘争を始めた。
 ゲバラはボリビア共産党との共同戦線や農民の支持などを期待していたが、党書記長が解放闘争の政治的、軍事的指揮権を渡すようゲバラに要求したことから対立。都市部との連携も断たれた。キューバの歴史家アディス・クプル(71)は「自分こそが主役と思い込んだボリビア共産党書記長の支援拒否が闘争失敗の最大の理由」とみる。
 ゲバラも67年10月9日、山中で政府軍に拘束、射殺された。ゲバラの遺骨は97年、フレディ・マエムラの遺骨は99年、ともに南部バジェグランデで見つかり、キューバに運ばれた。フレディのゲリラ兵としての名は「メディコ(医師)」または「エルネスト」。ゲバラの名と同じだった。
 軍事政権や保守政権が続いてきたボリビアでは長年、ゲバラ部隊は「侵略者」扱いで、フレディの遺族もゲリラ支持者と疑われ、治安当局に拘束されたこともあった。しかし、3年前に誕生した左派政権はゲバラ部隊に参加したボリビア人を「革命に人生をささげた」とたたえ、歴史的評価も変わりつつある。(文 名波正晴、写真 関根孝則、文中敬称略)=2009年4月15日

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

secondpicture

フレディ・マエムラの遺体が見つかった場所で祈る元看護婦のスサナ・オシナガ・ロブレスさん(75)。処刑されたゲバラの遺体を洗浄処理したのは彼女だった=ボリビア南部バジェグランデ

つぶやく ラテンアメリカのことば