「今からでも遅くない」

人生変えた「閣下」の教え 格差の壁を乗り越える

 ハンドルを握る私に、後部座席の「閣下」はいつも話し掛けてきた。話題は決まって私の勉学についてだった。「今からでも遅くはない。勉強を続けなさい」。高校を中退した私は17歳でインド軍に入隊、南部ハイデラバードにあるミサイル開発機関「防衛研究開発機構」に配属され、そこの所長だった「閣下」の専属運転手となった。

「弟よ」

 私はV・カティレサン48歳。インド南部タミルナド州の低カーストの家庭に4人兄姉の末っ子として生まれた。5歳のときに父が亡くなり、母はウシやヤギの乳を売って私たち4人を育ててくれた。貧しくてコメが買えず毎日、豆類ばかり食べていた。「学校をやめて働いておくれ」という母の懇願も無理からぬことだった。
 1980年代、インドはパキスタンと核開発を競っていた。「閣下」はミサイル開発の責任者の一人で、毎日、朝から夜遅くまで働き、帰宅が明け方になることもたびたびだった。「閣下」からは、その待機時間を利用して高校の修了試験の勉強をするよう言われた。それは、半ば「命令」でもあり、私は南部の公用語タミル語、英語、数学、理科、社会の教科書を車に持ち込んだ。
 「勉強の進み具合はどうかね」。南部出身の「閣下」は職場では英語やヒンディー語を使うが、私とはタミル語で話した。「順調です、アイヤー(閣下)」と私。激務を終えた「閣下」にとって、私と交わす同郷の言葉での会話は多少なりとも癒やしとなったのかもしれない。「頑張りなさい。タムビ(私の弟)よ」
 職場の上司たちは、インドを代表する科学者ばかり。私にとっては別世界の人々で、運転手であることに引け目を感じた。「閣下」は、勉強することで彼らと自分との距離を埋められると言うのだが…。勉強を始めて1年、高校修了試験に合格した。「信じられなかった。私にもできた。上司たちに近づける」と思った。生まれて初めて抱いた自信だ。「次の目標は大学入学資格試験だ」。人生の歯車が勢いよく回り始めた。

 引き続き車の中が勉強部屋となった。その後3年で大学入学資格試験に合格し、通信制大学で3年かけてインド南部の歴史の学士号を取得した。「学ぶことは面白い。この魅力をほかの人にも教えてあげたい」
 「閣下」は所長を9年半務め、政府の科学顧問に昇進した。私は上司が代わった後も、運転席で勉強を続けた。

前大統領

 タミルナド州メルー国立大の教室。天井でファンが回り、開け放たれた窓から陽光が差し込む中、私は「インド南部藩王国の統治形態」を講義している。勉強を続けて教員免許のほか、歴史や政治の博士号も取得し、除隊して、同大助教授になった。「講義は一生懸命で、進路相談にも熱心」との評もあるようだが、私は今もはだしにサンダル履きだ。胸板は分厚く、手もごつごつしているし、やぼったさも昔のままだ。
 「貧しかった『閣下』も刻苦勉励して科学者になった。同じ境遇の私が気になったのだろう」とも思う。「閣下」はその後、「ミサイル開発の父」と言われる著名な科学者となって政界に進出した。2002年から5年間インド大統領を務めたアブドル・カラムだ。」
 「閣下」との再会は突然やってきた。11年1月、大学に近いタミルナド州マドゥライの小児がん病院の完成式典に「閣下」が来賓として出席した。「約10年ぶりだ。私のことを覚えていてくれるだろうか」。壇上の「閣下」に恐る恐る近づき「開発機構で運転手だったカティレサンです、アイヤー」とタミル語で切り出した。」
 とたんにカラム氏の顔がほころんだ。私は「閣下」の教えを守り、勉強を続けて博士号を取ったことや、50歳を前に助教授になったことを一気に報告したところで言葉に詰まってしまった。」
 「運転手だったなんて、もう言わなくていい。君は立派な助教授になったんだよ。タムビ」。「閣下」は私の手を固く握ってくれた。

国民の8割が低所得層

汚職が貧困削減の障害

 インド経済は順調に成長を続けている。これに伴って中間層と高所得層が急速に拡大、自動車や家電業界など日系企業を含む各国メーカーは購入層として熱い視線を注いでいる。中間層、高所得層の合計は約2億4千万人に上るが、これは約12億の人口のわずか2割にすぎない。
 国民の残る8割、約9億7千万人は、年間の世帯当たり可処分所得が5千ドル未満の低所得層に分類される。
 前大統領のアブドル・カラムは著書の中で「貧困こそインドの敵。諸悪の根源であり、克服すべき課題だ」と指摘する。政府は「すべての国民にパンと教育を」のスローガンを掲げ、さまざまな貧困層救済策を実施している。小麦やコメなどを低価格で供与する制度、学校への学用品やパソコン配備など「素晴らしい制度ばかりだ」(地元メディア)。しかし、同時に「政治家や閣僚が汚職に手を染めているため、援助が貧困層に届いていない場合が多い。汚職撲滅こそ貧困削減への近道」との批判もある。
 「現代のガンジー」と呼ばれる社会活動家アンナ・ハザレは昨年から、ハンガーストライキを通じて汚職追放を訴えている。支持者は全国に拡大、議会も汚職対策法制定の審議に入った。インド社会は、貧困削減に直結する汚職撲滅にようやく本腰を入れて取り組み始めた。(文 清水健太郎、写真 村山幸親、文中敬称略)=2012年01月11日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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カティレサンの故郷インド南部タミルナド州の農村で、ミシンがけの内職をする女性と子どもたち。急速な経済発展を続けるインドだが、貧しい暮らしを強いられたままの貧困層も多い