父思い、まだ市電に乗れず

個人的栄達の人生送るな 意味のある赴任地、広島

 「父の被爆状況や、韓国人原爆被害者の権益回復運動への父の努力を回想しながら、私も父に劣らぬ寄与ができるよう努力しなければならないと思った」
 広島市の平和記念公園で8月5日に営まれた第42回韓国人原爆犠牲者慰霊祭に出席した辛亨根(シン・ヒョングン)駐広島韓国総領事(57)は、広島で被爆し、韓国人被爆者の援護に生涯をささげた父、故辛泳洙(シン・ヨンス)(1919〜99年)の人生を振り返りながら、自らの決意を語った。
 辛泳洙は植民地時代の41年に日韓合弁の製薬会社、東栄製薬に就職。翌年に徴用を避けるために希望して同製薬の姉妹会社である広島の日興製薬へ。日興製薬は暁部隊の指定工場で現場徴用扱いになるためだった。
 広島市宝町にあった専務宅で朝食を取り十日市町の会社へ行くのがいつもの日課だった。45年8月6日も朝食を取り幟町の電停で電車を待っていた。辛泳洙の手記によると、B29が2、3機はるか上空を通り過ぎた。電車が来て4、5人が乗り込み辛も乗ろうとしたが、ある若い女性に乗車を譲ったところ電車が動きだした。次の電車を待っていると原爆が投下された。

爆心地向かった電車

 辛は身を伏せ、足を動かすと動き「生きている」と思った。目も鼻も口も原形を失い顔は「まん丸いスイカみたい」になった。左耳はつぶれてなかった。乗り過ごした市電は爆心地に向かっており「それに乗っていれば即死は免れ得なかった」。
 辛は45年12月に韓国へ戻り、京畿道平沢で果樹園をしていた兄のもとに身を寄せた。50年6月に朝鮮戦争が起きた。辛は、戦争のために開城から逃げてこの果樹園で働いていた洪元順(ホン・ウォンスン)(77)と出会い、53年に結婚した。辛夫妻は平沢で菓子店や飲食店を営み、3男2女をもうけた。
 現在の韓国原爆被害者協会の前身である韓国原爆被害者援護協会が67年7月に結成された。同年11月には韓国人被爆者約20人がソウルの日本大使館前で補償要求デモを行った。

 辛一家はソウルに引っ越し旅館を営むが、辛が70年9月に協会の3代目の会長に就任して運動に打ち込み、生活は次第に厳しくなった。辛は家族に被爆当時の話や治療での苦労、どのように苦闘して帰国したのかとかいうことをほとんど話さなかった。子どもたちには「個人的な栄達や私利私欲のために人生を送るな」と語った。
 辛亨根は韓国外国語大学の日本語学科に入学するが、外交官の道に進みたくて試験を受け直し73年に同大の政治外交学科へ入学し直した。外交官試験に合格すると辛泳洙は「他人のためになる仕事だ」と喜んだ。

最初の被爆者手帳

 辛泳洙は74年にケロイド治療のために来日し、同年7月、韓国人被爆者として最初の被爆者手帳を受け取った。しかし「父は手帳をもらったことは意味のあることだが、協会の会員たちに実質的に恩恵を及ぼすことは何もなく、申し訳ないと思っていた」という。
 辛亨根は外交官の道を歩み、デンマーク、中国などで勤務し、中国専門家として青島総領事、瀋陽総領事を経て今年3月に父が被爆した広島に、母と妻とともに赴任して来た。
 辛亨根は広島の原爆資料館で7月から始まった企画展「生きる」に父の被爆者手帳や日記を提供した。「父の日記は二十数冊残っています。読み返すと大半は苦痛の叫びです。わずかに父が喜びを記した部分を公開した。父の遺品の公開が、被爆したのは日本人だけではなく、日本には被害者と(植民地支配という)加害者の二つの側面もあることを見る人に分かってもらえれば」と述べた。
 辛亨根は赴任以来、父が被爆した電停を10回以上、訪れた。「広島の市電は全国各地の電車が集まってまるで電車の博物館みたいで乗ってみたい気もする。でも、父がその電車に乗っていれば亡くなっていた。父への思い、その当時の悲惨な光景などを考えるとまだ乗ることができない」
 辛亨根は「父が被爆した広島に来たことは私にとって大きな意味がある。核兵器、世界平和、被爆者問題、日韓関係など父と関連した問題を現実的に進展させることができればと考えている」と語った。

「寒流当局、市民は暖流」

父が残した感謝の言葉

 辛泳洙(シン・ヨンス)、辛亨根(シン・ヒョングン)父子が口をそろえて語るのが、日本に正しい歴史認識を持ってほしいという思いと、韓国人被爆者を支援した日本の市民運動への感謝の言葉だ。
 辛泳洙は1971年夏に韓国人被爆者の窮状を訴えるために来日し、同年暮れに日本で「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」が結成された。「市民の会」は韓国人被爆者の被爆者手帳や手当の取得を要求する運動を支援し続けてきた。
 辛亨根は「韓国原爆被害者協会を運営できたのは基本経費を支援してくれた『市民の会』など多くの市民団体の助けがあったからだ。協会の経費を支援することが適切かどうか議論があったようだが、協会がなくなると運動の主体がなくなると支援してくれた」と指摘。
 辛泳洙は74年に韓国人被爆者として初めて被爆者手帳を受け取った時に「日本の心ある個人や団体の韓国被爆者に向ける心情を日本の暖流とたとえるならば、これとは反対に、日本の当局と現実は、日本の寒流というべく、冷たくきびしい。日本の暖流に沿って、日本の寒流を乗り切ろう。現実はいつもきびしいものなのだから」と手記を残した。
 息子の辛亨根は「『市民の会』の人たちはごく普通の市民の方たちです。とても平凡な人たちが力を合わせ、支援してくださったことが貴重だったと思います。こうした精神が発展すれば韓日関係はよくなる」と草の根の支援に感謝の気持ちを表し、希望を託した。(文 平井久志、文中敬称略)

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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韓国人被爆者援護運動に生涯をささげた辛泳洙・元韓国原爆被害者協会会長=1987年5月5日、ソウル市内の曹渓寺(提供写真)

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