反戦ルーツ、移民の苦難に

がん克服し世論けん引 「福島の子供守れ」と警鐘

 放射能被害への懸念が沈静化しない福島第1原発事故。文部科学省が福島県の小中学校などでの屋外活動を制限する放射線量を「屋外で毎時3・8マイクロシーベルト」と決めた直後の今年4月末、一本の評論記事がインターネット上を駆け巡った。
 「福島の子供を守れ」と題した記事は、乳幼児が大人に比べ、放射線に対するがんのリスクが圧倒的に高いと指摘。「3・8マイクロシーベルト」を一概に適用する文科省を批判し、こう警鐘を鳴らしている。
 親として、また医師として福島の子供たちに、このような有害なレベルの放射線被ばくをさせることを許す決定は、われわれの子供と将来の世代を守る責任の放棄であり、受け入れられない—。
 筆者はオーストラリア・メルボルン在住のティルマン・ラフ(56)。反戦反核の医師だ。
 「日本政府に怒っている」。政府決定の3日後、こう言って記事を送ってきた。記事は大きな反響を呼び、政府に政策撤回を求める市民の署名活動に勢いを与えた。

2度の収容体験

 メルボルン大准教授として教壇にも立つラフの反戦反核のルーツは、150年前にさかのぼる。
 プロテスタントの信仰厚い曽祖父は19世紀半ば、ドイツから「聖なる地」のあるパレスチナに移住。教条主義に陥り権威主義的なドイツの教会を嫌い、「汝(なんじ)の隣人を愛せよ」のキリスト教の基本に立ち返ったコミュニティーづくりに参画した。
 しかし1914年に第1次世界大戦が始まると、ドイツ人だという理由だけで、家族は英当局によってエジプトに強制移住させられ、収容所生活を余儀なくされた。
 その後パレスチナに戻ったが、四半世紀後に再び世界大戦が起きると、父と母は行き先も告げられないまま船に乗せられ、オーストラリアへ。終戦後も1年間の収容所生活を強いられた。
 「私の家族は、とてつもないコストを戦争に払ってきた」と、戦争に翻弄(ほんろう)され続けた独系移民家族の苦難を振り返るラフ。祖母は生前、幼いラフにこう言って聞かせた。

 「今度戦争が起きるなら、まず自分の頭上に爆弾を落としてほしい」。祖父は戦争で兄弟3人を失った。うち2人は同じ日に戦死した。
 ラフが反核に傾斜したのは、先住民アボリジニの居住地域でウラン採掘が社会問題化した70年代。広島、長崎への原爆投下から30年を迎えた75年8月には、反核デモに参加した。日本に5カ月滞在した直後だった。
 「デモに行ったのは、いいことだと思ったから」。家族の乗った車が交通事故に遭い母を5歳で失ったラフ。ラフを育て上げた宗教家の父は、「個」としてのラフの良心と信条を尊重した。

あだ名は狂犬病

 新冷戦と呼ばれた80年代に入ると、ラフはノーベル平和賞も受賞した「核戦争防止国際医師の会」に入会、オーストラリアの反核指導者として頭角を現し始める。
 「(東西対立が起きれば)米軍関連施設のあるメルボルンは攻撃対象になる。核戦争は日常の恐怖だった」。ラフは80年代、メルボルンから230キロ離れた小村イーストリマに農場を購入、避難も真剣に考えた。
 そんなラフに転機が訪れたのは89年。広島滞在中にぼうこうがんの症状が出た。大掛かりな手術を受けて回復するが、死の深淵(しんえん)をのぞいた。
 「命や健康という贈り物の大切さとはかなさに気付いた。命や健康を当たり前と思ってはならない。毎日を精いっぱい生き、大事なものに打ち込まなくてはならない」。
 闘病後、こんなエッセーを記したラフは、日豪両政府が2008年に設立した「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」のアドバイザーを務めるなど、非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際運動(ICAN)」を活動拠点に世界の反核世論をけん引する。
 「がんを経験して人間が変わった」と語るのは、イーストリマに住む友人のマーフィー宣子(のぶこ)(55)だ。
 人間としての包容力を備えたラフのことを宣子はこうも表現した。「あだ名は狂犬病。一度食い付くと離れない。運動で何も変わらず、あきらめる人も多いが、彼の反核への情熱、『核なき世界』への思いは変わらない」

80年代に運動のうねり

「新冷戦」が背景に

 世界的に核廃絶を求める運動が盛り上がったのは、1980年代の「新冷戦」と呼ばれる時期だ。オーストラリアの反核医師、ティルマン・ラフもこの頃「核なき世界」への思いを強固にした。
 ソ連や中国から遠く離れたオーストラリアに暮らしていたにもかかわらず、ラフは当時「核戦争の恐怖」をリアルに感じたと取材で強調した。
 ラフはじめ多くの反核活動家が危機感を強めた背景にあったのは、米国のレーガン政権が「二重決定」と呼ばれる北大西洋条約機構(NATO)の安全保障政策を履行しながら、ソ連への対決姿勢を強めたことだった。
 79年にNATOが合意した「二重決定」は、ソ連が西欧諸国を射程に収めるSS20など中距離核ミサイルの配備を進めたことを受け、米国も新型核ミサイル、パーシング2などの欧州配備をちらつかせながら、ソ連に中距離核ミサイルの撤去を求めるという政策方針。
 レーガンはもともと「核なき世界」を志向していたが、当初はソ連を「悪の帝国」と呼ぶなど、根深い対ソ不信を払拭(ふっしょく)できなかった。
 そうした西側盟主の強硬姿勢が全世界に暗い影を落とし、レーガンの娘パティ・デービスも反核運動に加わった。その後、大きな変化が訪れたのはソ連に改革派指導者のゴルバチョフが登場した80年代半ば。86年のアイスランド・レイキャビクの米ソ首脳会談では「核ゼロ」のオプションまで議論された。(文 太田昌克、敬称略)=2011年07月20日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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オーストラリア・メルボルン大で核問題に関する講義を行うラフ。医師の立場から核兵器の非人道性を訴えている=6月(撮影・金森マユ)

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