再び抑留の地シベリアへ

第二の人生、日本語教師  ギターと歌で“アイドル”

 「タナカさん、コンニチハ!」。赤れんがの建物がヨーロッパの雰囲気を醸し出すロシア極東ハバロフスク。アムール川に面したこの町の中心ムラビヨフ・アムールスキー通りで、教え子だったロシアの少女が日本語で元気よく声を掛けてきた。「えっと、誰だっけ?ああ、ナターシャ。大きくなったなあ!」
 田中猛(たなか・たけし)(84)がハバロフスクで暮らすのは人生で2度目だ。1度目は日本の第2次大戦敗戦後のソ連によるシベリア抑留という不可抗力で。2度目は自らの選択で。68歳の時に日本から完全移住し、公立学校や大学で日本語教師をしながらの生活は16年を超えた。
 約60万人の元日本兵がソ連などの強制収容所に送られ、重労働を強いられたシベリア抑留では栄養失調や寒さで約5万5千人が死亡したとされる。抑留後に帰国しながら、戻って長期間暮らすのは田中だけとみられる。

死者の声

 抑留生活は4年間。最初の抑留地ザバイカル地方ハラグンを毎年墓参する。「おまえは生き延びて穏やかな気持ちになれたかもしれないが、われわれはなぜここで死ななければならなかったのか今も分からない」。聞こえてくる死者の声に、彼らはまだ眠っていないと感じている。無念さを抱え「埋もれたまま」だと。
 「日本とロシアの殴られれば殴り返す歴史の中で、殴られる側に立ち会ったという意味で運が悪かったと思う。シベリア抑留が愚かしい歴史にピリオドを打つ転機とならなければ、多くの犠牲が無駄死にとなる」
 長崎市で8人きょうだいの四男に生まれ、小学2年で父親、6年で母親と死別。長崎工業学校の卒業時に「なるべく遠くに行きたい」との希望から中国・大連にあった南満州鉄道(満鉄)の研究所に就職。大豆油から機関車の潤滑油をつくる研究をしていたが、18歳の1945年5月に召集され関東軍に。
 3カ月で終戦を迎え、45年11月にハラグンに送られた。酷寒の伐採作業では年配者が次々と死んでいった。その後、ハバロフスクなど3カ所の収容所生活を経て、49年10月に帰国した。

 「大学教授も社長も政治家も抑留地ではみんな同じ労働者。自分だけが生き残ろうとするエゴイズムなど赤裸々な人間の姿を学んだシベリアは私にとって大学だった」
 帰国後は業界紙「セメント新聞」に入社。取材で知り合った建築家やデザインの専門家と意気投合し、ものづくりを論じた月刊誌「造」を発刊。その後、都市開発の専門家として評論や講演活動を行ってきた。

地平線の夕日

 94年に講演でハバロフスクを訪れ「ここで日本語を教えてほしい」と頼まれた。「抑留生活ではひどい目にも遭ったが感動もあった。大自然、地平線に落ちていく夕日。つらかったというだけで終わるのはつらい」。翌年に単身で日本から移住した。
 日本を身近に感じてもらいたいと学校の授業では教科書にはない音楽を多く取り入れた。「ロシア人は歌が好き。子供たちはすぐに覚えてくれる」。休み時間に日本語で「椰子の実」や「バラが咲いた」を楽しそうに歌う子供たちを見ると喜びを感じた。
 音楽はロシア生活での強い味方だ。会長を務める日本文化サークルや退役軍人の集会で得意のギターを手に日本やロシアの民謡を歌えば、たちまちキスの嵐を浴びる自称「じいさんとばあさんのアイドル」となる。
 友人の数学者や芸術家に食事などに招待されることも多く、俳句、墨絵、料理など多岐にわたる趣味が生活を彩る。「ストレスが多く、人間関係が煩わしい日本にはもう住めない。日本人じゃなくなっちゃったんだな。ロシアの波長が合う」
 星占い好きで約30年前に亡くなった妻由利子(ゆりこ)は田中の将来を「晩年がいい。しかし肉親の愛情には恵まれない」と占った。その通りになったが「人生に満足感がある」と言う。
 息子2人は日本にいるが「最終的に人間は一人。覚悟を決めて最期はロシアかな」。残された余生も、力ある限り、冷たい大地に「埋もれる友」の声を聞きに行くつもりだ。

境界線画像

「補償協」32年の歴史に幕

 シベリア抑留の経験者でつくる「全国抑留者補償協議会」(全抑協)が5月23日、特別給付金の支給を定めたシベリア特別措置法の成立を理由に32年間の歴史に幕を閉じた。存命の元抑留者は全国で約7万人、平均年齢は88歳前後と 推定され、活動が困難になったことも理由になった。
 戦後最大の悲劇ともいわれるシベリア抑留では、最も長い人で約11年間、旧ソ連などで強制労働に従事させられ、労働賃金も支払われることはなかった。
 昨年6月に成立した特措法は抑留期間の長さに応じ、1人25万〜150万円の給付金を支給する内容。事実上の日本政府による賃金の補償で今年4月末までに約6万2千人が支給を認められた。
 給付金の認定書には菅直人首相からの多大な苦難に対する「慰藉の念」を表した表彰状も添えられている。抑留4年で35万円を給付された田中猛は「戦後の歴代政権でここまでやった初の首相。うれし涙が出て、感謝の手紙を首相の事務 所に送った」と話す。
 全抑協の解散に伴い、死亡者調査や遺骨帰還などの事業は4月に支援者らが結成した「シベリア抑留者支援・記録センター」が継承した。同センター代表世話人の有光健は「日本兵と一緒に抑留された中国、韓国籍の人は給付金の対象外。
 今後は彼らへの給付金支給を働き掛けていきたい」と話している。(文・写真 平林倫、文中敬称略)

 

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

secondpicture

友人のロシア人芸術家との食事会で、ギターを演奏しながら歌う田中。「歌と音楽があって幸せな人生だった」と話す=ロシア極東ハバロフスク

つぶやく ロシアについて