南北分断が引き裂いた愛

民主化で半世紀ぶり復権  白石の追憶抱き、料亭経営

 貧しい私が/美しきナターシャを愛し/今夜はしんしんと雪が降りつむ/(中略)山奥へ行くことは世の中に負けるのではない/世の中などけがらわしくて捨てるのだ
 現在の北朝鮮の平安北道・定州生まれの詩人、白石(ペク・ソク)(1912―95年、本名・ペク・キヘン)が1938年につくった詩「私とナターシャと白いロバ」の一節だ。
 白が日本の植民地支配からの解放後、北朝鮮にいたため、韓国では長く禁じられた詩だったが、87年の民主化以降に約半世紀ぶりに復権した。平安道の方言で描かれた叙情性豊かな詩は、韓国の人々が最も愛唱する恋愛詩の一つとなり、教科書にも掲載されている。
 「あなたが出した白石詩人の全集を読んだ。一度会いたい」。87年11月「白石詩全集」を発刊した李東洵(イ・ドンスン)嶺南大教授(58)に、あるハルモニ(おばあさん)から突然、電話が来た。
 韓国随一といわれた料亭、大苑閣の女主人、金英韓(キム・ヨンハン)(1916―99年)からの電話だった。金は「私がナターシャのモデルだ」と告白した。
 白は「モダンボーイ」というニックネームがよく似合う美男子だった。詩人の白と妓生(キーセン)の金は現在の北朝鮮、咸鏡南道・咸興の料亭で運命的な出会いを果たす。

永遠の女房

 白は出会った時「今日からおまえは永遠の女房だ。死ぬ前に私たちの離別はない」と激しい愛に落ちた。白は唐詩の中から取った「子夜」の愛称で金を呼んだ。
 金がソウルに戻り、白がそれを追い、ソウル市鍾路区で約三年間の二人の濃密な生活が続いた。白は二人の愛をテーマに「海」や「私とナターシャと白いロバ」などの作品を書いた。
 白の両親は妓生との生活を許さず、白を故郷に呼び強制的に結婚式を挙げさせた。しかし、白はすぐに逃亡し金の元に戻った。白は金に二人で誰も知らない中国の東北地方で暮らそうと誘ったが、金はこれを拒んだ。豊かな生活に慣れた金に、生活能力のない詩人との極寒の中国での生活は不可能だった。
 しかし、解放、そして朝鮮戦争を経ての南北分断により、二人が再び会うことはなかった。  慶北大学国文学科の大学院に在席していた李東洵は80年代初めに大邱の古本屋で、植民地時代に書かれた美しい詩を発見した。作家の名前は「白石」。
 李は古本屋を回り、取りつかれたように白の詩を1編、2編と探した。収集した詩は80数編にまでなった。折しも、韓国社会では87年6月の民主化闘争で一気に社会の雰囲気が変わった。李は87年11月「白石詩全集」を編集、発刊した。

在北詩人

 李は「白は『越北詩人』ではなく、故郷の平安北道・定州にいて、分断のために北で生きた『在北詩人』だ」と指摘。白の土俗的で叙情性あふれる詩は瞬く間に韓国の人々を魅了した。
 年老いた金は「きっと、詩人の霊魂があなたを自分の息子として私の前に差し向けたのだ」と李をかわいがった。
 そして、金は「私があの時、中国へ行かず、彼を北であんなに苦労させてしまった。申し訳ない」と涙を流した。
 李は「料亭のおかみという、ある意味でとても現実的な生活をしながらも、青春時代のあまりにきれいな愛の追憶を胸の中に大切に抱いていた。その記憶自体が過酷な現実を生きていく糧だったのではないか」と金の人生を振り返る。
 白は解放後の北朝鮮で家庭を持ち、朝鮮作家同盟中央委の外国文学翻訳室でロシア文学の翻訳や児童詩や児童文学への評論を行ったが、62年以降は文筆活動の記録はなく、不遇のうちに人生を終えたようだ。晩年は田舎の農場で文学指導をしたとみられているが、その文学が評価された痕跡は残っていない。
 金は亡くなる直前の97年、当時100億円以上した料亭の土地建物を仏教界へ寄付し、韓国で話題になった。そこには寺が建てられ「吉祥寺」と命名された。「私が死んだら、初雪の降った日に遺骨を吉祥寺の松の上にまいてほしい」と遺言を残し、その通り実行された。

エピローグ

石川啄木の「石」を名前に 庶民の哀歌を継承

 詩人、白石と妓生、金英韓の悲恋の組みひもの中には「日本」という糸が組み込まれていた。
 金は早く父を亡くし、金真香(キム・ジンヒャン)の名で妓生の道に入ったが、随筆を発表するなどの文才を発揮。独立運動家の申允局(シン・ユングク)がこの才能を高く評価、1935年、日本へ留学させた。
 金を留学させてくれた恩人の申が日本の官憲に逮捕された。金は留学を打ち切り、申が収監されている咸鏡南道・咸興へ向かった。そこで再び妓生をし地元有力者と親しくなれば申と面会できると考えた。
 白は29年に日本へ留学、青山学院英文科を卒業、咸興の高校の英語教師をしていた。咸興の料亭で二人は出会うが、日本留学帰りという経歴がなければ、初対面でここまで意気投合したか。
 「白石詩全集」を編さんした李東洵・嶺南大教授によれば、「白石」の「石」は白が心酔していた日本の詩人、石川啄木(1886―1912年)の姓から取ったものだという。日本へ留学し、白は啄木の歌を愛し、その故郷への愛着、庶民の哀歌などは白の詩にも深い影響を与えた。
 啄木が亡くなった年に白が生まれ、白が啄木の影響を受けて故郷の平安道の方言を駆使し、植民地支配下の朝鮮の人々の胸に染み入る叙情世界をつくったのは運命的な文学水脈だった。また、白は金を抱き、よく夏目漱石の詩などを朗読したという。(文・写真 平井久志、文中敬称略)=2009年3月18日配信

 「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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金英韓をモデルに1944年に作製された絵はがき(左)と日本の青山学院留学当時の白石(李東洵嶺南大教授提供)

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