無き「祖国」に募る望郷

樺太、満州、ブラジルへ  移住地に生きて半世紀

 青く澄んだ空の下、放射状に広がる枝に釣り鐘のように緑の実が下がっていた。薄絹にも似た害虫よけの白い袋に包まれた熱帯果実グアバ。小松恵美子(79)は「手間がかかる果樹よ。でも、この果物のおかげで、何とか食べられるようになったわね」と目を細めた。
 ブラジル・リオデジャネイロ郊外の平野部に位置するフンシャル。1961年、日本政府が募集・分譲した農業移住地で恵美子が暮らして半世紀。産声を上げた樺太(現サハリン)、戦渦に見舞われた少女時代の満州(現中国東北部)。波乱の生涯を経て、ついのすみかで余生を送る恵美子は地図から消えた「祖国」に望郷の思いをはせる。
 31年、日本統治下の樺太の敷香(現ポロナイスク)近郊で生まれた。父は現地に進出した日本の製紙会社社員。「どこに行っても鳥居があった」。日本と変わらぬ光景が広がっていた。

最後の列車

 40年7月、9歳の時、父が満州・牡丹江(現中国黒竜江省)郊外の樺林の製紙工場に転勤となり、一家は大陸へ。小さな駅舎から工場まで、ポプラ並木が続き、赤れんがのしょうしゃな社宅が並んだ。「春先にはツツジの花で山々が桃色に染まり、夏には皆で盆踊り」。一家にとって、のどかなひとときだった。
 「早く逃げろ、ここは激戦地になるぞ」。太平洋戦争の敗色が濃くなった45年8月、工場を訪れた憲兵が声を張り上げた。ソ連(当時)は同月8日、中立条約を破棄し対日参戦、満州に侵攻した。樺林はその最前線にあった。36歳で急逝した母の三周忌は中止、父は母の遺骨を庭先に埋めた。
 川に架かる長さ約200メートルの鉄橋のレールの間に板が敷かれ、日本人家族が次々と橋を渡った。所用で会社に向かった父とは離れ離れに。後に鉄橋は日本軍が爆破。ソ連の進軍を阻むためだった。恵美子らは11日に渡河、山道を夜通し歩いて牡丹江駅へ。「ハルビン行きの最後の避難列車に飛び乗った。生き延びた」。避難先の小学校で玉音放送を聞いたのは、それから間もなくのことだった。

 ソ連軍はハルビンに達し、日本人を収容施設に移送。恵美子らは配給のおにぎりやみそ汁で空腹を満たした。3歳の妹は栄養失調で腹部が膨れ上がり顔面蒼白(そうはく)に。裕福な中国人に引き取られた。ようやく再会した父も46年2月、ハルビンで病死。数カ月後、難民となった姉弟4人は無蓋(むがい)車にしがみつき葫蘆島に運ばれ、引き揚げ船で長崎県佐世保市にたどり着いた。

地球の反対側の家

 恵美子は北海道美唄市の親類に身を寄せ54年5月、旧財閥系の炭鉱で働く6歳年上の兼吉と結婚、1男1女をもうけた。兼吉は日本で洗礼を受けたプロテスタント。炭鉱では生真面目な男として名が通っていた。
 日本のエネルギー政策が石炭から石油へと軸足を移し始めた60年ごろ、炭鉱は閉山を決め人員整理に着手、社員をブラジルに視察派遣するなど海外移住も積極的に勧めた。「広大な大地で自営農として独立」。兼吉は職場の同僚と誓い合った。恵美子も「箱庭のような内地よりは」と心が躍った。61年8月、一家はリオから2時間以上トラックに揺られ移住地に入った。
 枯れた根が浮いた大木、緑深い森林。電気、水道もない移住地では、住む家を建てることから始まった。同じ炭鉱出身の15家族と柱になる木を切り倒し、ござで壁をつくった。「いざとなればかゆでしのぐしかない」。恵美子は腹をくくった。
 日系農協の勧めで始めた養鶏で一時1500羽飼育したが、他の住民も参入、仲たがいによる発砲事件も起きた。71年、グアバ栽培に転じ、果肉に害虫がつかない珍しさで市場を席巻。「養鶏での借金も返せた」。生活がようやく軌道に乗った。
 兼吉は2006年9月、肺ガンで息を引き取った。80歳だった。今は長男滋(55)と同居し、約200本のグアバを育て週3回収穫する。日本には3回帰国した。その都度思う。
 「地球の反対側で50年、ここが私の家。だけど、樺太と満州は今も夢見るの。両親が眠る満州、一度行ってみたいな」

後継者不足、存亡岐路に

ブラジル移住地

 戦争を挟んでブラジルに移住した日本人は計約26万人。戦前の移民の多くが出稼ぎ目的だったのに対し、戦後は定住を念頭に1952年から移住事業が再開され、日本政府もブラジル国内の5カ所以上に直轄移住地を建設。しかし、後継者不足の深刻化など課題は多く、移住地は存亡の岐路に立たされている。
 総面積1015ヘクタールのフンシャルには、61年から63年に北海道と九州の炭鉱離職者を中心とした計48家族が移住。リオデジャネイロの北東約90キロに位置するため大都市の近郊農業の拠点として計画され、分譲地は1世帯当たり平均約10ヘクタールとブラジル農家としては小規模単位。
 地質は砂と粘土で、当時を知る関係者は「痩せ地で農業には不向き」と指摘。ただ、年平均気温が約25度で多雨な環境は熱帯果実の育成に適しているとされ、60年代半ばからグアバ栽培が本格化した。
 九州の炭鉱を退職して61年に入植した脇坂仁治(76)は「親子2代が生計を立てるには現在の2倍以上の農地が必要」と話し、子供全員が移住地外に居住。日本人は現在20世帯以下で、移住地内に居住する若者も激減している。
 邦字紙、ニッケイ新聞の深沢正雪編集長(45)は「日本人移住者の大半が小農で後継者問題は共通の悩み。和ナシを栽培して活路を見いだした移住地もあり、付加価値の高い作物の開発なども今後の課題」と話す。(文・写真 名波正晴、文中敬称略)=2011年03月23日

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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移住地の畑で、袋をかけたグアバの様子を見る恵美子。週3回の収穫の日、朝から半日がかりで800個以上を摘んで箱詰めする=ブラジル・リオデジャネイロ郊外のフンシャル

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