貧しい村からスターに

最下層民のシンデレラ  ビル掃除、苦学し音大へ

 インドの西海岸ムンバイ(旧称ボンベイ)。陽光が降り注ぐアラビア海沿いの遊歩道では映画のロケがしばしば行われ、「セレブ」の俳優や歌手らが街を行き交う。ムンバイはインド随一の商都であり、米国のハリウッドにちなみ「ボリウッド」と呼ばれる映画の都。エンターテインメントの中心地でもある。
 市内の音楽スタジオでは、人気急上昇中の女性歌手バイシャリ・マデ(26)が映画音楽の収録を控え、ヒンディー語の歌の練習に余念がない。澄んでいて鋭さがあり、情感もたっぷりのその歌声は、音楽関係者もうなるほどだ。
 歌唱力を認められ、歌謡番組の顔として確固たる地位を築きつつあるバイシャリだが、「正直言ってここまで来るのはとても苦しかった」。歌姫が誕生するまでの道のりは、インドの身分制度カーストによる差別との闘いにほかならなかった。

畑が舞台

 バイシャリの古里は西部マハラシュトラ州カルタレ村。身分制の最下層に置かれる「ダリット」の家庭に生まれた。「種を買うお金さえなくて、よそに小作に出た」とバイシャリ。午前6時から10時まで畑で働いた後に小学校に通った。日当は大人の半分、10ルピー(約20円)だった。
 父はバイシャリが10歳のとき家を出て今も行方がしれない。母は上位カーストの家でメードとして働き、バイシャリと2人の弟を育てた。貧しく、上位カーストの家の残飯をもらって食べた。
 インドでダリットとして生まれた者の大半は貧しい一生を送る。だがバイシャリには「神からの贈り物」、素晴らしい歌声があった。畑で歌いだすと皆が小麦を刈る手を休めて聞き入った。「将来は歌手になりたい。でもお金もコネもない私には無理な夢」
 11歳の時に転機が訪れた。近くの村で歌謡ショーが開かれ、無謀にも「舞台で歌わせて」と主催者に頼み込んだ。しぶしぶショーの最後に歌うことを許されたが、地元のマラーティー語の歌を歌い終わるとアンコールの歓声がやまなかった。主催者から褒美に100ルピーをもらった。歌で初めての稼ぎだった。全額母親に渡し、家族の食費の足しにした。

 「やはり歌手になりたい」。日に日に夢は膨らんでいった。しかし、ダリットの娘。「中学を出たら働かせ、早く結婚させなさい」と、村の上位カーストにバイシャリの母、ラトナ(45)は言われ続けた。

やさしい瞳

 「うちには金はない。勉強したければ、自分の力でどうにかしなさい」。ラトナはバイシャリに現実を語った。ダリットでもできるバイトはビルなどの掃除。来る日も来る日も働き、苦学して音大に進学した。歌謡コンテストがあればどこへでも出かけた。
 2005年、音楽プロデューサーのアナンド(37)と結婚した。「こんなに歌が上手な人に会ったことはない」と話すアナンド。彼の助言を受け、新人歌手の登竜門と言われる民放テレビの歌謡コンテストに的を絞った。「レパートリーは300曲」と応募時にアピールした。
 09年1月。ムンバイの象徴、インド門前の特設ステージでの決勝大会。2カ月前のムンバイ同時テロで傷ついた市民を励まそうと盛大なコンテストとなった。バイシャリは人気映画の挿入歌やラブソングを熱唱、ほかの出場者を大きく引き離して優勝した。
 「テロで亡くなった人の悲しみを感じながら歌った。でも優勝が決まった瞬間、『これで歌手になれる』と喜びが爆発した」。シンデレラが誕生した。
 それからわずか2年で27曲を発表。CDも13枚リリースした。米国など海外への進出も計画されている。古里の小学校に制服150人分を寄付。障害者や孤児の支援も検討中だ。スターダムにのし上がった今でも、貧しい人々を思うやさしさが瞳の奥に宿る。
 「あの子は有名になっても心は変わらない」と、粗末な自宅で目にうっすら涙を浮かべる母にも近く家を贈る予定だ。
 「もしあきらめていたら、今も畑で働いていた」とバイシャリ。くじけない強い思いが夢を引き寄せた。

社会に根強い身分差別

世界最大の民主主義国家

 「世界最大の民主主義国家」を掲げ、憲法で差別を禁じるインドだが、身分制カーストに基づく差別は今でも社会に根強く残っている。政府は、進学や就職で下位カースト優先枠を設けるなど救済策を講じる。政治やビジネス分野で優秀な人材を輩出しているものの、最下層民ダリットを取り巻く環境は依然厳しい。
 インドでダリット出身の著名人と言えば、女性の下院議長クマルと、大衆社会党の女性党首マヤワティが挙げられる。ダリットであることを武器に、大衆の支持を得てのし上がってきた政治家たちだ。しかし、バイシャリのようにダリットである不遇を克服して成功した者は数少ない。
 ダリットはインドの人口約12億人の約15%。ダリットであるというだけでいわれのない暴行や虐待、女性への乱暴など、悲劇や事件は後を絶たない。ヒンズー教から、万人の平等を説くキリスト教や仏教に改宗するダリットも多い。
 バイシャリの夫、アナンドは最上位カースト。異カースト間の結婚は極めて珍しい。インド人同士は、姓名や出身地を知るだけで、その人がどのカーストに属するかおおよそ見当がつくという。バイシャリは「どこの出身ですか」との質問に「私はインド人です」と答えるようにしているという。国民のだれもが「インド人」と答えるようになるまでには、まだ相当な時間がかかりそうだ。(文 清水健太郎、写真 村山幸親、文中敬称略)=2011年02月23日 

「地球村」の人びとは今、何を喜び、なにゆえに悲しみ、日々の暮らしを送っているか。「@LOVE」では世界各地のラブストーリーを紹介。このほか「@コリア」「@チャイナ」「@アメリカ」「@その他地域」と五週を一クールとするこの企画では、地域ごとに主人公やテーマを立て、「今を生きる」人間模様を描く。

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バイシャリの故郷、インド西部マハラシュトラ州カルタレ村で、農作業を終え家路に就く小作農と家族ら。「ダリット」として生まれた村人の大半は、小作農として貧しい生活を送り人生を終える

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