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 「日本で生きる」   ベトナムとの懸け橋に 

 難民生活乗り越え起業     「努力は報われる」 

建材関係の展示を見て回るドアン・ティ・チャン(中央)とトラン・フー・ニャン(右)=東京都江東区の東京ビッグサイト

建材関係の展示を見て回るドアン・ティ・チャン(中央)とトラン・フー・ニャン(右)=東京都江東区の東京ビッグサイト

 東京ビッグサイト(東京都江東区)で開かれた建材関係の展示会。コンサルタントのドアン・ティ・チャン(27)が、母国、ベトナムから来た建築会社の経営者と一緒にインテリア会社のブースに入った。
 紺色のスーツに身を包んだ彼女が通訳を務める。日本語のパンフレットを手にベトナム語でトラン・フー・ニャン(34)に内容を話し、彼の質問を伝えた。「この素材にはどんな特長がありますか」「サンプルをいくつか提供してもらうことは可能ですか」
 ニャンは「ベトナムではここ数年、デザイン性の高い木造建築に人気があります。日本の新素材を導入したいですね」と話す。チャンの案内で200社以上の企業ブースを2日かけて回った。
 「目が回りそうです」。資料がいっぱい入ったバッグを抱えた小柄なチャンが、大きな瞳を輝かせた。


 ▽政治に翻弄

 展示会から約1カ月後の11月下旬、チャンはベトナム・ホーチミン市から南へ車で約3時間かかるチャビン省にいた。メコンデルタに農村が点在するチャンの故郷だ。しかし、郷愁に浸るため訪れたのではない。
 「故郷に日本語学校を」という夢を実現するためだ。雨期が終わろうとする季節だったが、連日のように降る雨の中、建設候補地になりそうな場所を1週間以上かけて歩き回った。
 チャンは農業を営む祖父母と教師などをしていた両親、姉の3世代家族に生まれた。それからまもない1990年、父親は家族を残して単身ベトナムを脱出、日本に渡った。日本政府から難民認定を受けた父親が定住したのが、兵庫県明石市だった。
 2005年に家族呼び寄せが認められ、母親と姉の3人で来日。「まだ微妙な影響があるかもしれないから」。チャンは父親が脱出した経緯だけでなく、名前を聞いても話そうとしない。家族が政治に翻弄(ほんろう)された過去は、心の底にいまだに横たわっている。
 ベトナムでの中学の成績はいつもトップクラスだった。「特に数学と英語が好き」。それが来日してから言葉の壁にぶつかる。東京・品川にあった難民を支援する施設で半年間、日本語を学んだ。その後、父の住む明石市の市立中学3年に編入されたが、最初に受けた歴史・社会の試験は1点だった。「問題の意味すら分からなかった」
 優等生からの転落。そして生活習慣の違い、目に見えない差別意識…。「異国の生活で苦労しながらも、私を支えてくれる家族が良い暮らしができるよう、がんばるしかない」

        ドアン・ティ・チャン(右)が小学3年生の頃、姉と一緒に撮影。「正月のお祝いです」=ベトナム・チャビン省(本人提供)

ドアン・ティ・チャン(右)が小学3年生の頃、姉と一緒に撮影。「正月のお祝いです」=ベトナム・チャビン省(本人提供)

 ▽数学が得意

 チャンは猛勉強して市内の県立高校に進んだ。「努力は必ず報われる、という言葉が一番好き。ベトナム語にも似たような表現があるの」
 しかし、10年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所と関西学院大が提携して難民学生に提供する奨学金プログラムの選考に1度落ち、1年間の浪人生活を経験する。翌11年に同大国際学部に合格した。
 「浪人時代が一番つらかった。これからどうなるのだろうといった不安から、毎日のように泣いていた」。その間に半年間通った職業訓練校で、会計や簿記に興味を持った。もともと数学が得意なチャンには向いていたのかもしれない。大学でも経営学や会計の勉強を続け、財務諸表の分析にも没頭した。
 就職活動中にコンサルティング会社を回りながら「自分でビジネスを始めた方が幅広く活動できるのではないか」との思いが芽生えた。チャンの行動は早かった。卒業を控えた15年1月、自らの名前を社名にしたコンサルティング会社を立ち上げた。

 ▽日本語学校

 明石市の自宅が会社の事務所だ。毎朝、業務依頼などのメール20~30件に応対することから一日が始まる。資本金は10万円。通訳や翻訳のほかベトナム雑貨や加工食品の輸入仲介、地方自治体向けの投資セミナー講師など少しずつ事業範囲を広げている。
 日本ではベトナム人の研修生と仕事先で会うことも多い。日常会話は問題なくても職場で専門用語に戸惑う彼らの姿は、かつての自分に重なる。
 「仕事で必要な日本語を教える学校が必要だ」。実現に向けて動きだした。日本語学校の建設に必要な資金の調達も兼ね、ベトナムでの市場開拓を考える日本の化粧品メーカーからサンプルを預かって、女性モニター探しもした。「スポンサー企業を説得するには、もっと実績が必要です」
 さらに教師陣の手配などまだまだ課題はあるが、チャンはいつも前向きだ。「日本とベトナムの大きな懸け橋になるような仕事をするのが夢です」(敬称略、文・磐村和哉、写真・藤井保政)

◎民族の誇り胸に 

 1970年代半ば以降、ベトナム、ラオス、カンボジアから小型船などで難民が国外に脱出し「ボートピープル」と呼ばれた。これらインドシナ3国に誕生した社会主義政権になじめなかったのが理由だ。80年代後半から流出が再び増えた。貧困を背景により豊かな生活を求めてのことだ。
 日本は78年から2005年末までの間に、1万人以上のインドシナ難民の定住を受け入れた。当初はボートピープルらで、その後は家族の再会が中心となっている。
 ドアン・ティ・チャンの父は、財産没収という政治的理由と、それに伴う生活苦が脱出動機にあったとみられる。「次の機会にはアオザイ姿で写してほしい」。写真撮影の際、チャンは民族衣装を着たいと言った。難民生活でも、民族の誇りは忘れていない。(敬称略)