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 「戦争を語り継ぐ」   体験がないからこそ 

 ひめゆり資料館の説明員    元学徒の思い伝える 

陸軍病院に使われた壕のジオラマの前で来館者に説明する仲田晃子。「平和な時代の病院とはまったく違った」と話す=沖縄県糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」(撮影・牧野俊樹)

陸軍病院に使われた壕のジオラマの前で来館者に説明する仲田晃子。「平和な時代の病院とはまったく違った」と話す=沖縄県糸満市の「ひめゆり平和祈念資料館」(撮影・牧野俊樹)

 「私には沖縄戦の体験はありませんが、ひめゆり学徒隊のみなさんと伝えてきました。きょうは、その中で聞いてきた話をしたいと思います」
 沖縄県糸満市にある「ひめゆり平和祈念資料館」のホール。説明員を務める職員の仲田晃子(なかだ・あきこ)(40)がゆっくりと語り始めると、横浜市から修学旅行で来た高校生が真剣な表情で聞き入った。


 ▽生き残って

 「たくさんの兵隊さんがけがをして、10代の生徒たちが病院へ手伝いに行きました」
 71年前、住民も巻き込み約20万人が亡くなった沖縄戦。ひめゆり学徒隊には、15歳から19歳までの女子生徒222人が看護要員として動員され病院で働いた。敗走を重ねる日本軍と共に移動を余儀なくされ、最後はガマと呼ばれる自然洞窟の地下壕(ごう)に。そこで軍に解散を命じられて戦場に放り出され、半数以上が命を落とした。
 資料館はその壕の横に1989年、「亡き友のことを伝えたい」と学徒隊の生存者らが設立、運営してきた。中に入ると、亡くなった女子生徒たちの制服姿の写真がこちらを真っすぐ見つめるように並び、壕のジオラマ、筆箱や下敷きなどの遺品も。
 生存者は開館後、来館者に自らの戦場での体験を約1時間語る「講話」を続けてきたが、高齢のため昨年3月に終えた。仲田を含む30~50代の職員5人がその役割を受け継いでいる。
 仲田は沖縄戦や学徒隊の説明を終えると、元学徒の証言映像を流し始めた。「子どもたちに戦争の悲惨さを感覚的に伝えたい」との思いからだ。
 「ドカーンですよ。周りにいた人たちの目玉やはらわたが飛び出し、脚がちぎれて吹き飛ばされました」
 画面の中にいる高齢女性は、友人たちが砲弾に当たって亡くなった状況を淡々と語る。
 映像が終わると仲田は、あるエピソードで締めくくった。「戦争を生き延びた人は結婚して、子どもや孫ができて、楽しいことがたくさん起きる。でも、そのたびに亡くなった友達が思い浮かぶんだと言います」
 それは元学徒たちが公の場でほとんど話してこなかった「生き残ってしまった苦しさ」だった。

        ひめゆりの塔の前で島袋淑子(左)と話す仲田晃子=沖縄県糸満市(撮影・牧野俊樹)

ひめゆりの塔の前で島袋淑子(左)と話す仲田晃子=沖縄県糸満市(撮影・牧野俊樹)

 ▽負い目感じ

 館長の島袋淑子(しまぶくろ・よしこ)(88)も、同じ思いを抱きながら戦後を生きてきた。
 当時17歳だった島袋は戦場で右腕に重傷を負って、意識を失いかけていた。そばにいた無傷の友人に「あなた一人でも逃げて。私がここで死んだと誰かに知らせて」と頼んだ。「私も残る」と拒まれたが、強く言って逃がした。島袋は間もなく米軍に捕らえられ助かったが、友人は亡くなる。
 負い目を感じ、遺族にも責められると考えて島袋は、当時の出来事を話せなかった。しかし、三十三回忌に遺族の家で仏壇に手を合わせた時に、初めて告白した。
 「あなたを行かさなければ良かった。ごめんね」。友人の母親と妹からは「ありがとう」と言われたが、胸の痛みは今も消えない。
 自身の講話で島袋は、この話をめったにしなかった。仲田は「一番つらいのは『生きたい』と願いながら亡くなった友達だと、生存者は思っています。命がある自分がつらいなんて、人には言えなかったはずです」と心情を思いやった。
 「だからこそ」と仲田は言う。「学徒隊のみなさんが何を抱えて戦後を生きてきたか、ちゃんと伝えたい」

 ▽紡いだ理念

 仲田は那覇市で生まれ育った。沖縄戦で祖父が亡くなり、祖母は女手一つで2人の子どもを育て、大変な苦労をしたと聞いた。幼心に「戦争が気になっていました」。
 琉球大に進学し、学徒隊の手記を読み始めると「もっと知りたい」とのめり込んで大学院まで進む。修了後、豊富な知識を生かしてほしいと資料館の関係者から誘われ2005年に採用された。
 仲田らが講話を引き継ぎ1年以上がたつ。修学旅行生らからは「生き残った人のつらさは知らなかった」「懸命に語る若い職員の方を見て、後世に伝えることの大切さを感じた」などの感想が寄せられる。
 島袋は「仲田さんたちは自分たちで講話の新しいかたちをつくり上げました。私たちの戦後の思いも理解してくれて、継承はもう大丈夫です」と笑顔を見せる。
 一方で仲田は危機感を募らせる。ここ数年、来館した中高生が残した感想文に「戦争時代」という言葉を目にするようになり、戦争が歴史上の事実として扱われ「遠くなった」と感じるからだ。
 どんな話をすれば、子どもたちに戦争の実相が伝わるか。これからも試行錯誤は続くが、学徒隊だった人たちと紡いできた理念はぶれない。「体験がなくても、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを語り継ぐ」(敬称略、文・岡田圭司、写真・牧野俊樹)

◎思いに純粋な人 

 仲田晃子(なかだ・あきこ)は今の立場を「たまたま」と笑う。教員を目指して琉球大に入ったちょうどその年、ひめゆり学徒隊の引率教員で、名誉教授の仲宗根政善(なかそね・せいぜん)が亡くなった。ひめゆりに関する仲宗根の著書を読む機運が学内で高まった時期に「居合わせた」のが始まりだ。
 大学4年間の研究で満足できず、研究者になる気は全くなかったが大学院へ。「新聞が学徒隊をどう伝えたか」をテーマに論文を書き上げたものの、没頭し過ぎ教員免許に必要な単位を落とした。ひめゆり平和祈念資料館で働くまでの「約半年はフリーターでした」。
 行動だけだと無計画に見えるが、実際は違う。「沖縄戦を自分なりに理解し、自分の言葉で伝えたい」という思いに純粋に従ってきたのだ。仲田は今、その思いを形にしている。(敬称略)