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【第4回 フィリピン】 刻印、解き放ち生きる 輝き増すハンセン病の元隔離島で

陽気に話すマクセンシャ・ゴンザレス。その屈託のない笑顔には、負の刻印を解き放ち姿を変えてゆく島の魅力と重なる輝きがあった(撮影・村山幸親、共同)陽気に話すマクセンシャ・ゴンザレス。その屈託のない笑顔には、負の刻印を解き放ち姿を変えてゆく島の魅力と重なる輝きがあった(撮影・村山幸親、共同)

 波止場からの坂道で振り返って見た海はサンゴの花畑のようだった。

 教会の鐘が鳴った。フィリピン西部パラワン州のクリオン島は、クリスマスイブの夕刻だった。プルメリアの白い花弁もバナナの葉も、夕日を浴びてオレンジ色に染まる。

 20年前に初めて訪れたときより、島は一層輝きを増したように見えた。クリスマスのにぎわいだけではなかった。高台には小さなホテルができ、「秘境の海」を求めるダイバーら外国人観光客も訪れる島になっていた。

 ▽8歳で発病

 坂道沿いの小さな2階家で、75歳のマクセンシャ・ゴンザレスは会うなりけらけらと笑った。こちらが自己紹介しただけで、上の歯が半分欠けた口を開けてくすぐったげに身をよじる。

 「発病は8歳のとき。顔に斑点が出て陽性と分かった。まあ、両親とも患者だったから」

 クリオン島は米統治下の1906年、ハンセン病の強制隔離島になる。フィリピン中から患者が「犯罪者のように」集められ、35年に人口は約7千人に達する。マクセンシャの両手指は病の後遺症で第2関節から内側に曲がったままだ。ただ、そんな身の上も、島と家族の歴史も、彼女はとことん陽気に話す。病から回復し、負の記憶からも自由であるように見えた。

 両親は同国中部セブ州出身。「ここを地獄のような島だと思っていた母は、来るのが嫌で家の天井裏に隠れたりした。でも、最後は警察官だった祖父に説得され、泣きながら保健当局に出頭した」。30年代の話だ。「同郷の父と母は島で出会ってすぐ愛し合い、すぐに私が生まれた。父は漁師。島に来てからの2人は幸せだったと思う」

 当初、生まれる子への感染などを理由に結婚は禁じられていたが、患者同士は次々と恋に落ちた。女性は未婚のまま子を産み、島で働く保守的なカトリック修道女を嘆かせた。32年に反乱が起きる。恋愛や結婚の自由を求め、男性患者が棒や刀を手に女子寮前に集まって訴えた。「一緒にダンスやピクニックをしたい」。女性たちも反乱を歓迎、寮を逃げ出した。

 以後、結婚は自由になる。かつての日本ではあった患者らへの断種や堕胎の強要も、教会などの反対で行われなかった。

 島の未来が変わった。

青く透き通る海に囲まれた緑豊かなクリオン島。かつての強制隔離島は、「秘境の海」を求めるダイバーらも訪れる島になった(撮影・村山幸親、共同)

 現在の島の人口は約2万人。ほとんどが患者の子孫だ。マクセンシャら回復者は約80人。島は98年にハンセン病の根絶を宣言した。

 かつて島には患者らと他の者の居住区を分けるゲートがあった。マクセンシャによると「通るときは外出許可証が必要だった。患者の居住区だけで使われる貨幣もあった」。だが、治療法確立後の64年、隔離を解く法改正が実現、ゲートは消えた。島外訪問も自由になった。絶対隔離の根拠となった「らい予防法」を日本が96年に廃止する30年以上前だ。マクセンシャは当時の解放感を「自由が胸いっぱいに広がった」と記憶する。

 

▽引きこもり

 首都マニラの大学を出て島の高校教師になった。20代で結婚、今はマニラで暮らす娘を産む。「女たらしだったねえ」という前夫が病死後、54歳のときに22歳年下のラウルと再婚する。

 「『もう子どもは産めないよ』と言っても彼がいいって言うから。老後の心配がなくなったと私は思ったけど」。笑う彼女の横で「この人のやさしさ、働き者なところに引かれた」とラウル。「女は妻一人。浮気は悪運を招く」が信条のきまじめそうな家具職人。彼も患者の子孫だ。

 「島では病への差別などあり得ない」とマクセンシャは言う。島の高校で女生徒たちに聞くと「ひいおじいちゃんがその病気だった」「うちはおばあちゃん」。生粋の島出身を誇るように、誰もがためらいなく話した。

 58歳の医師アルトゥール・クナナンは「島外からの差別もほぼ消えたが、内なる刻印、自己差別から脱け切れず、家に引きこもる回復者もいる」と話す。その彼もマクセンシャの名には笑顔になった。「彼女は中でも特別。刻印を見事に解き放って生きている」

クリスマスの深夜ミサに集まったクリオン島の人たち。キリスト教徒が人口の8割以上を占めるフィリピンでは、クリスマスは特別な一日だ(撮影・村山幸親、共同)

 

▽治療で区別なし

 サナトリウムから「クリオン総合病院」と名を変えた島の病院は、設備が整っているため、現在は周辺の島から一般患者が来る。病棟にはハンセン病から回復したが身寄りのない高齢者5人が暮らす。傍らには別の病気の入院患者がいた。「治療でハンセン病を区別、差別しない」。祖母が患者だった医師クナナンの長年の悲願が実現していた。

 教会の鐘がまた鳴った。クリスマスの深夜ミサの始まりを告げる鐘だ。

 振り香炉からの乳香が漂う中、ミサにはひざまずいて祈るマクセンシャの姿があった。

 後で聞くと「おいしいものがたくさん食べられるように」祈ったとか。少々あきれて首を振ると、彼女はまた声を立てて笑った。(敬称略、共同通信・石山永一郎)=2017年02月01日

差別の底には何が   

 日本では、治療法確立後もハンセン病の隔離政策、断種や堕胎の強要は続き、子を持つ回復者はまれだ。クリオン島をモデルに1930年に造られた長島愛生園(岡山県瀬戸内市)には、約190人の回復者が暮らすが、平均年齢は85歳。

 クリオン島を2015年に訪れた入所者自治会事務局長で80歳の石田雅男は「大歓迎を受けて感激した。過去は忘れられないが、過去に縛られずに生きるクリオンの人々には大切なことを教えられたように思う」。子や孫を持つ姿には「悔やんでも悔やみきれないほどうらやましかった」。

 彼我の差は何ゆえか。この国のあらゆる差別の底に深く潜むものは何なのか。考え続けている。