3

女形

女形

「女形」坂東玉三郎の夕霧(松竹提供)

「女形」坂東玉三郎の夕霧(松竹提供)

 世界のさまざまな芸能の中で、歌舞伎の際立った特徴といえば、女形の存在を挙げることができます。歌舞伎は役者を見る芸術。その中で大輪の花を咲かせる女形の存在は欠かせません。歌舞伎の始祖と言われる出雲の阿国は女性でした。彼女は400年以上前に、京都で「かぶき踊り」を始めましたが、江戸時代初めに女性の出演は禁止されました。阿国らに続き、遊女たちが宣伝活動を兼ねて「かぶき踊り」を盛んに上演するようになり、それが風紀を乱すとして幕府に弾圧されたのです。以来、歌舞伎は男性のみで演じられてきました。
 女形は、日本の歌舞伎だけのものではありません。古代ギリシャや中世ヨーロッパにも存在し、シェークスピア時代の英国では、若い女性役は少年が演じていました。イタリアオペラでは、19世紀初めごろまでカストラートという去勢した男性歌手が女性の役を歌っていたことが知られています。また、アジアでもインドの古典劇や中国の京劇などに女形が存在しました。古今東西、芸能の起源は宗教儀式から出発しており、そうした背景もあって、女性が排除されてきた歴史があったのです。
 現在では、外国ではごく一部をのぞいて女形はなくなり、女優の出演が当たり前となりました。中国の京劇にはかつて、梅蘭芳という名女形がいて、たびたび来日して日本でも人気がありましたが、戦前から女優が進出し、革命後は女形の養成は行われなくなっています。なぜ日本の歌舞伎だけに女形が残ったのでしょうか?
 明治の中頃、欧米列強との不平等条約改正を目指して、伊藤博文率いる時の政府は鹿鳴館で舞踏会を開き、極端な欧化政策を進めました。その中で、歌舞伎を外国の賓客に見せて恥ずかしくない芸術に高めようという「演劇改良運動」が政府主導で始められ、「女形の廃止」も目標として掲げられました。当時、歌舞伎界の頂点に立っていた名優、九代目市川団十郎も演劇改良の趣旨に賛同し、自分の娘を歌舞伎座で初演された「鏡獅子」に出演させたこともありましたが、女優が歌舞伎の女形に取って代わることはありませんでした。
 それは、当時、実力のある女優がまだ育っていなかったことに加えて、300年近くの歴史の中で、女形の演技と型、様式が、女優にまねのできないほど洗練され、固まっていたからです。たとえば、「助六」のヒロインであるおいらん、揚巻が舞台で身につける衣装、かつら、かんざしなどは40キロ以上もあります。それだけの重さを背負う体力がないと、女形ならではのスケール大きな美しさを表現できないのです。また、明治末から現代まで、五代目中村歌右衛門、六代目歌右衛門、そして坂東玉三郎のように、際立った才能と美貌に恵まれた真女形(女形のみを演じる役者)が相次いで出現し、歌舞伎界をリードしてきたことも、女形が今まで続いた理由と言えるでしょう。
 歌舞伎の家柄に育った子どもたちは、幼い頃から芸事の稽古に励みますが、舞踊とともに、必ず女形の演技を習います。将来立役になっても、若い頃に女形を経験することで、立ち居や身のこなしに色気を出すことができるようになるからだと言われています。女形の演技は、リアルな女性ではなく、男性の目から見た理想の女性、つまり人工的に作られた女性像なのです。肩胛骨を寄せ、内股に歩いたり、膝をかがめて立役より背を低く見せたりと、体にかかる負担も重く、一人前の女形を育てるには、時間と労力、そして何よりも役者本人の人一倍の努力が必要です。
 現代における歌舞伎女形の第一人者である玉三郎は、2012年に人間国宝に指定されました。4、5月の歌舞伎座こけら落とし公演でも「将門」の滝夜叉姫、「廓文章」の夕霧、「二人道成寺」などに出演し、還暦を超えてなお、みずみずしく、艶やかな舞台姿を見せています。玉三郎は歌舞伎にとどまらず、バレエ、中国の昆劇、琉球組踊、和太鼓など、国境を超えたさまざまなジャンルの舞台芸術にチャレンジし、女形芸術の可能性を追求しています。そして今、玉三郎は歌舞伎の若手女形を指導し、後継者の育成に心血を注いでいるのです。彼の後を継ぐべき女形は誰になるのでしょうか?その姿はまだ見えてきません。歌舞伎ファンは、大輪の花が咲くのを待っているのです。

トップへ戻る

記者プロフィール

  • 石山俊彦
  • [いしやま・としひこ]

1955年長野県松本市生まれ。東大文学部卒。1979年共同通信入社。岡山、神戸支局、大阪支社社会部を経て、文化部記者として20年近く歌舞伎を中心とした舞台芸術全般を取材。文化部芸能、読書、生活デスク、高知支局長などを経て現在、共同通信用語委員長兼編集局編集委員。国立劇場専門委員。著書に「楽屋のれん」「歌舞伎座五代」など。雑誌「演劇界」、歌舞伎座プログラムなどに執筆多数。