日本の実力 第9部 防災

第3回 仮設市街地

 高台に並んだ住宅群が、かつて暮らした土地を見下ろしていた。和歌山県田辺市の内之浦地区。海に近い21世帯が約10年前、集団で移転した。

 一帯は終戦直後の1946年、昭和南海地震の津波に襲われ、町内会長で農業田村豊治(たむら・とよはる)さん(62)の実家も被災した。「津波はいつ来るか分からないし、過去の大雨では床下浸水の被害も出た。土地への愛着はあったが、津波を恐れる思いが強かった」と振り返る。

 「何とかしてほしい」と行政に要望していたこともあり、元の土地を市が公園として整備。事業に伴い移転が実現した。

海外は食堂やパブ

 災害に遭う前に、安全な町づくりを進め、被災後のことを話し合う「事前復興」と呼ばれる取り組みが始まっている。

仮設市街地のイメージ

仮住まいにも生活感を 力蓄える復興の基地に

新潟県中越地震で長岡市に造られた仮設住宅=07年10月(共同)

1999年に発生したトルコの地震で、仮設住宅の中庭を囲む女性たち=2000年8月(仮設市街地研究会の松川淳子さん提供)

 神戸大の塩崎賢明(しおざき・よしみつ)教授(62)は「災害直後の対応も重要だが、長い復興段階の議論が欠けていた」と指摘する。

 東京で8月、99年の台湾中部大地震やトルコの地震などの被災地の写真展が開かれた。撮影したのは、自治体の防災計画などに携わる専門家らによる「仮設市街地研究会」のメンバー。被災者が仮設住宅で暮らす期間の重要性を訴えてきた。

 メンバーは台湾やトルコの仮設住宅を訪れた際、目を見張った。コンビニや診療所、食堂、理髪店、パブ、図書室、礼拝所、ブランコ、バスケットコート…。画一的な仮設住宅だけがずらりと並ぶ日本に対し、再建途上の暮らしを支えるさまざまな生活施設があった。

大正から後退

 日本では認められていない仮設住宅の増改築や、屋外で談笑する人々の姿も目立ち、「生活感があった」と、首都圏総合計画研究所の浜田甚三郎(はまだ・じんさぶろう)所長(65)。

 日本の仮設が原則「公設公営」なのに対し、海外は非政府組織(NGO)や宗教団体などが携わる事情もある。

 日本でも大正の関東大震災では浴場や診療所、託児所、図書室などをバラックに設ける規定があった。だが現在の厚生労働省は「あくまで住宅を失った人に対する当面の措置」との姿勢で、引き継がれていない。

 現状を変えようと研究会は「仮設市街地」構想を打ち出した。震災後、被災者がまとまって元の地域や近くで仮設住宅に入り、生活関連施設や仮設店

舗なども設け、本格復興の段階で撤去する。

 点在する空き地などにつくる仮設市街地を「分散型」、公園や緑地、農地などまとまった空間を利用する場合は「一団型」と呼ぶ。

神戸の教訓

 首都直下地震の切迫が指摘される中、東京都は「時限的市街地」と呼び方を変えて、この概念を震災復興マニュアルに盛り込んだ。ただ用地確保など課題も多く、国の反応は鈍い。

 仮の生活の場が「雨露をしのぎ、寝る」だけの空間でいいのか―。浜田所長は訴える。「復興途中でも被災者にはかけがえのない時間。生活を立て直し、力を蓄える復興の基地としたい」

 阪神大震災で神戸市長田区の町づくりに尽力した田中保三(たなか・やすぞう)さん(69)は仮設市街地構想に賛同する。苦い教訓が反映されているからだ。

 仮設住宅が郊外に集中し、住民はばらばらになった。片道2時間かかる遠隔地に移った人もおり、区画整理の会合になかなか集まれない。もちつき大会など元の住民が交流する機会をつくったが、戻ったのは3割程度にとどまった。

 自動車部品卸商で、自身も社屋などを焼失。「客は1日1人でもええ。商売が生きがいなんや」。被災した自営業者らの言葉を聞き、地元で仮店舗などを開く必要性を痛感してきた。

 田中さんも台湾の仮設住宅に足を運び、仮店舗や食堂などで人々が世間話をする「場」がたくさんあるのを見た。「あれが本来の在り方。神戸の轍(てつ)は踏んでくれるな」とつぶやいた。(所沢新一郎共同通信記者)

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