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「祈りよ力に」(7) 「ボスニア・ヘルツェゴビナ」

傷癒やし、共存の未来へ 民族混成サッカーチーム 虐殺の記憶を超えて

カフェで体験を語るスリョ・チャカノビッチ。「政治指導者もサッカー代表の成功を見て、国の未来のために歩み寄ってほしい」と言葉に力を込めた=ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァ(撮影・デヤン・ベキッチ、共同)

カフェで体験を語るスリョ・チャカノビッチ。「政治指導者もサッカー代表の成功を見て、国の未来のために歩み寄ってほしい」と言葉に力を込めた=ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァ(撮影・デヤン・ベキッチ、共同)

 柔らかな陽光が古びたコンクリートの観客席を包み、ふぞろいの芝生を青く輝かせる。ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァ。地元サッカークラブ「グベル」の会長で47歳のスリョ・チャカノビッチはホームグラウンドの片隅に立ち、ピッチを駆け回る選手らの姿を見つめていた。

 視線の先では、セルビア系のキリスト教徒と、ボスニャクと呼ばれるイスラム教徒の若者たちが入り交じり、パスやシュートの練習を繰り返す。

 「ボスニャクの連中とは一緒によくカフェにも行くんだ」。セルビア系の若い選手が言った。時折、笑い声も聞こえる。19年ほど前、この地でセルビア系によるイスラム教徒の虐殺があったとは信じられないほど平和な光景だ。

 グベルは1924年創立の歴史あるチーム。その名はオスマン帝国の兵士らが皮膚病治療に使った近くの鉱泉にちなむ。民族が争い、多くの血が流れた92~95年の内戦で活動を停止したが、会長のスリョらが2003年に再興。民族間の憎悪が残る中、民族混成を守り続け、和解の象徴として注目を集めてきた。

 ▽脱出

 「吸っていいか」。スレブレニツァ中心部のカフェで、チームの好調な出足について熱心に話していたスリョは、内戦の体験に話が及ぶと突然、顔をこわばらせ、たばこを取り出した。
 スリョはボスニャクの理学療法士。1995年7月、「民族浄化」を進めるセルビア系兵士の包囲網を突破し、スレブレニツァを脱出した生き残りの一人だ。
 16~60歳の男たち約200人で森を抜け、川を渡った。「何も食べずに歩いた。負傷者も出た」。6日後、約100キロ離れたボスニャク支配下のツズラにたどり着いた。
 9千~1万人が脱出を試み、成功したのは3千~4千人。「別の集団にいた兄は途中で殺された」。約2年前に遺体の一部が見つかったが、全部が家族の元に戻るまで「埋葬はしない」。スリョは目を赤くし、声を震わせた。紫煙なしではたどれない記憶―。

 虐殺事件の前年に生まれた息子と妻はスレブレニツァの難民キャンプに残った。包囲していたセルビア系勢力にその後、脱出を許されて避難。しかし「妻の父親は殺された」。スリョはそう言ったきり、口をつぐんだ。
 スレブレニツァでは国連保護下の「安全地帯」さえも包囲され、食料が不足。地域一帯から逃げ込んだ10代後半の少年や男性も「安全地帯」の中や、外に連れ出されるなどして殺された。スレブレニツァ全体の虐殺被害者は子供、女性を含め8300人を超えた。

        ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァの記念墓地には、犠牲になった被害者の名前が刻まれた白い墓石が並んでいる。スリョの兄はまだ埋葬されていない(撮影・デヤン・ベキッチ、共同)

ボスニア・ヘルツェゴビナ東部スレブレニツァの記念墓地には、犠牲になった被害者の名前が刻まれた白い墓石が並んでいる。スリョの兄はまだ埋葬されていない(撮影・デヤン・ベキッチ、共同)

 ▽見知らぬ故郷

 ツズラの難民キャンプからスリョがスレブレニツァに戻ったのは2000年。自宅は破壊されており、テントで暮らした。内戦前に盛んだった鉱工業は壊滅。主を失ったボスニャクの住居を目当てに、サラエボなどから流れ込んだセルビア系難民が街にあふれ、かつての民族共存の雰囲気が一変していた。

 セルビア系住民には「出て行け」とののしられた。「見知らぬ土地に来たよう。生きていくのが精いっぱいだった」とスリョ。スポーツや文化の復興など、当時は考えもしなかった。

 貧困が人々の生活をむしばんでいた。10代の少年が通りをぶらつき、酒やたばこに手を染める。02年に病院の理学療法士の職を得たスリョは「少年たちに健康的な生活環境を与えたい」とグベルの再興を始めた。

 民族主義的な傾向の強いセルビア系難民がスレブレニツァに愛想を尽かし、次々と町を離れたころだった。クラブ再興には残った地元のセルビア系住民と一緒に地域社会を築きたいとの願いも込め、荒れ果てたクラブハウスの掃除やペンキ塗りから始めた。

 ▽観客からやじも

 誰でも参加できるようクラブの会費は無料。民族に関係なく、実力でレギュラーを決めた。内戦前のジュニアやユースの選手も戻ってきた。

 父親と兄が殺されたボスニャクで30歳のサバフディン・マシッチもその一人。「友達に会えてうれしかった。もちろん、セルビア系の友達にもね」と振り返る。

 当初は試合中、対戦チームや観客からセルビア系選手に「ボスニャクとプレーするのか」とやじも飛んだ。今、ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー界は民族混成チームが主流。同国代表は今年初めてW杯に出場する。

 ただ、スレブレニツァは経済の復興が進まず、グベルの運営資金は常に不足。自治体の援助も限られており、監督らスタッフは無給で、練習に通うバス代さえ払えない選手も多い。それでも、今期のグベルは地域リーグから2部リーグに昇格するチャンスが大きい。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは今も政治や教育をめぐり民族が対立、欧州連合(EU)加盟に向けた手続きも停滞する。「サッカーでの融和の成功を政治にも届けたい」。スリョは願う。グベルが未来を変える力となってほしい。この地の鉱泉のように民族の傷を癒やしながら。(共同通信ウィーン支局 宇田川謙)=2014年02月19日

メモ

民族分権に課題も

 ボスニア・ヘルツェゴビナはオスマン帝国やオーストリア・ハンガリー帝国の支配などを経て、第2次大戦後にユーゴスラビア連邦の共和国となった。ユーゴ解体後の1992年に独立を決めるが、イスラム教徒とセルビア、クロアチア系の3勢力による内戦が始まり、95年に終結するまで約20万人が死亡したとされる。

 イスラム教徒とクロアチア系両勢力の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア系の「セルビア人共和国」で国を構成。それぞれ独立した行政府、議会、裁判所を持つ。各勢力の利害が対立し、重要政策を決定できない場合も多く、制度統一をめぐる課題も残している。