【花咲爺ブログ】桜のうんちく
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【1: 旅を枕にした西行 】
願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ
百人一首では「嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな」の歌で知られ、坊主めくりでおなじみの西行法師である。
まだ桜の開花を待っている時期に吉野のことを書くのははばかれる。しかし、桜の名所として吉野ほど著名なところはない。全山が桜におおわれ、すそ野から千本桜まで時間を追って咲き乱れるのである。
西行はその吉野に3年間、庵を結んでいた時にこの歌をうたったとされる。桜をこよなく愛した歌人の一人で、桜花爛漫の時期に死にたいと願った。この歌は60歳ごろの作とされるが、不思議なことに73歳の如月(2月)望月(15日)の翌日、最期の隠遁地、南河内の弘川寺でなくなった。
史上最も桜を愛した歌人のひとりでもあった。出家する前の俗名は佐藤 義清(さとう・のりきよ)。鳥羽院の北面の武士として仕えていたが、ならぬ恋がゆえに出家、和歌を携えて全国を行脚した。たぶん旅を文学に高めた最初の日本人だったのだろうと思う。
紀貫之の『土佐日記』があるといわれれば、そうだが貫之は土佐国への赴任の途上を日記にしたためただけ。西行の歩いた距離とは桁が違う。在原業平の『伊勢日記』は自身が本当に吾妻まで旅したか疑わしいのだ。連歌の宗祇や俳句の芭蕉も旅を生活にした点で、西行の生き方をまねたのだろう。
我輩も旅を枕に風雅に生きたいが、西行の真似はできそうにない。(平成の花咲爺) 藤原京、平城京、平安京。教科書で習った日本の都だ。「みやこ」と読む。「京」も「みやこ」。「京都」は訓読みするとおかしなことになる。みんな唐の時代の長安を模して東西南北に碁盤の目の道路を配置した。天皇の御座所は中央北部にあり、「天子南面」の思想を具現化した。
さて「桜」の名のつく都がかつてあった。「京」と呼ばれる前は天皇の御座所を「宮」と呼んだ。天皇が代わるごとに御座所が代わった。というより“自宅”が御座所になった。「宮」は「神宮」の宮に通じる。神のいますところの意味だろうか。
日本書紀によると、履中天皇は現在の大和桜井の付近に磐余稚桜宮(いわれわかざくらのみや)を営んだ。即位後3年目の11月朔(1日)に両技船(ふたまたぶね)を磐余の市磯池(いちしいけ)に浮かべて遊宴した。
膳臣余磯(あしわでのおみあれし)が天皇にお酒とつごうとしたとき、どこからか桜の花が盃に落ちた。天皇は時ならぬ桜の花に驚いて、そばにいた物部長真胆連(なかまいのむらじ)に探させたところ、掖上室山に桜木があった。
天皇は喜び、春に先駆けた桜ということで自らの宮に「稚桜」の名前をつけたという。膳臣余磯は稚桜武部臣の号をもらい、物部長真胆連もまた本姓に稚桜部造を賜った。いま稚桜神社がある。
桜井の地名が稚桜と関連があるかとうかは分からない。附言すれば、歴史的に一番有名な桜井は「青葉繁れる桜井の・・・」の歌で知られる桜井駅だ。大阪府と京都府の境にある。楠正成が湊川の戦に出陣したとき、長男の正行に別れを告げたところだ。
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