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【為末大の視点】第10回 前向きに捉える選手たち

 為末大氏
 ここ数カ月「記憶」に関して国会を含め、社会の中でさまざまな議論がなされている。私たちの社会では、人間は自分自身に起きた出来事をテレビカメラで録画したように記憶していて、仮に分からないとしたら、うそをついているか、思い出せないだけだろうという認識でできている。


 ところが、もし記憶自体がテレビカメラではなく、その時の印象を記した日記のようなものだったとしたら、そしてその日記自体が書き換わるものだったとしたらどうだろうか?


 ▽無意識


 2005年にヘルシンキで行われた世界陸上選手権では、400メートル障害決勝の直前に豪雨に襲われ、練習用のサブトラックと本競技場の間にある長い通路の中でウオーミングアップをした。たくさんの人がいて、場所が地下にあって入り口も遠く、携帯の電波が入りにくかったこともあり、中止になったとか、時間が延期されたなど情報が錯綜(さくそう)した。若手の選手たちは情報が出るたびにウオーミングアップを開始したり、やめたりと、明らかに体力を無駄遣いしていた。


 そんな中、20代も後半になって経験も豊富だった当時の私は静かに落ち着いて、正しい情報が出るまで無駄に体を動かさずに待てたことがメダルを取れた要因の一つになった。そう講演では話している。


 ところが、数年前にヘルシンキを訪れてみたら、この通路が拍子抜けするほど小さかった。記憶の中では百数十人がひしめいていたが、現実には数十人が入ればいっぱいになるだろうという程度の大きさだった。通路の入り口も思っていたより近い。本当にあの時そんな混乱があったのかどうかすら、自分で不安になってしまった。


 米カリフォルニア工科大学の下條信輔教授が、高校生アスリートを対象にした実験を行っている。試合前「あなたは試合に勝てると思っていますか」といった質問をし、さらに試合後「あなたは試合前に試合に勝てると思っていましたか」と質問をする。結果は興味深いものだった。


 試合前「試合に勝てる」と答えた人も、実際の試合に負けた後では「試合前には試合に勝てると思っていなかった」と記憶を書き換える傾向にあるのだ。しかも本人の自覚なしに。もちろん試合に勝った場合も同じだ。


 よく優勝後のインタビューで、これ見よがしに自分を正当化していた私には耳が痛いが、認知心理学の世界では人間の記憶は曖昧で、無意識に再編集されるということがよく知られている。


 ▽過去の意味


 このような実験結果はトップアスリートには当てはまらないという反論もあるが、私は、むしろトップアスリートほど過去を書き換える傾向が強いのではないかという仮説を持っている。


 実際に競技人生ではそんなにいいことばかりは起こらないし、失敗もたくさんあるが、あれがプラスになったとか、あれが今につながっているという前向きな話ばかり出てくる。


 しかも選手たちは、意図的にそうして前向きに捉えようとしているのではなく、本当にいい出来事しか覚えていないか、無意識に出来事を前向きに捉えている。私はトップアスリートを「未来に希望を持てるように、過去を再編集する癖がついている人々」と解釈している。


 米IT大手アップルの共同創業者、故スティーブ・ジョブズ氏はスピーチで「点と点をつないで線にするのだ」と話していた。点はそれぞれの経験になり、線が自分にとっての解釈になる。どの点を選ぶのか、どういう結び方をするのか。それによって人間は記憶が変化するのではないか。


 よく、過去は変えられないというが、正確に言えば過去に起きた出来事は変えられないが、「意味」は変えられるというべきだろう。なぜならば、人生で起きた最悪の出来事も、その後の生き方によっては、自分の人生の転機になったと捉え直すときがあるからだ。


 「人間は現実ではなく、物語を生きている」というのが、私の競技人生で学んだことだ。現実に起きた事は変えられないが、物語はいくらでも変えられる。そして物語が変われば、過去も未来も、風景が違って見える。(元陸上選手)


【第9回 運動習慣をつくる】
【第8回 食事は豆腐1丁から】
【第7回 自分に問い掛け解決を】
【第6回 アスリート性】
【第5回 人間観を変えよう 管理型から選手主導型】
【第4回 生産性とトレーニング】
【第3回 見知らぬ自分と付き合う スポーツで学べること】
【第2回 休む勇気】
【第1回 問われるスポーツの公平 科学の力で変容】

2017/08/22 12:33

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