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【二・二六事件から80年 各社コラム】 北海道新聞 秋田魁新報 下野新聞 信濃毎日新聞 山陽新聞

【北海道新聞】<卓上四季>
■二・二六事件 


<暴力をゆるし来し国よこの野蛮をなほたたへむとするか>。歌壇の巨星土屋文明が1936年(昭和11年)の二・二六事件に際して詠んだ短歌である▼国家改造を目指す若手将校が蔵相らを襲ったクーデター未遂事件に対して、軍内部や世論の一部から共感の声が上がった。しかし、現実主義者の土屋は暴力を賛美する風潮に危うさを感じ取ったようだ▼きょうはその事件から80年に当たる。単なる節目の年と思えないのは、昨今の憲法をめぐる状況のためだろうか▼昨年来、政権や自民党から改憲の手始めに緊急事態条項を加えては、との発言が相次いでいる。自民党改憲草案には、大災害やテロ、内乱などの緊急事態が起きると首相に権限を集中させる規定がある。基本的人権が制限され得るから、穏やかではない。外国では常識と強調しているが、現行法で対処できるとの声もある▼戦前、軍部は二・二六事件で敷かれた戒厳令に乗じて台頭した。歴史学者の大江志乃夫(しのぶ)さんは著書で、戒厳令は他のカードより圧倒的に強いジョーカーと同じだと述べた。………(2016年2月26日)<記事全文>


【秋田魁新報】<北斗星>
■1936年2月26日 


1936(昭和11)年2月26日、東京・田端の寄宿先で目覚めた工藤清一郎さん(97)は「東京でもこれほど雪が降るのかと、びっくりした」と聞き書き本「しんなりと役場生活」(小社刊)で回想している

▼元雄和町長の工藤さんは、当時都内の工業学校に通う学生で、朝のラジオで二・二六事件の発生を知る。陸軍の青年将校が1500人の兵を率いて決起し、大雪に見舞われた首都中心部を占拠した事件だ。反乱は4日で鎮圧され、リーダーは処刑された

▼事件の5年後、工藤さんは出征先の満州で反乱部隊の兵士を見掛けたという。周りの者たちが「彼らは反乱に関わったために満州の最奥地へ送られていたのだ」と言い交わしていたことを覚えている

▼青年将校が決起した背景には、天皇を取り巻く側近たちへの不満、農村の窮乏や台頭しつつあった左翼勢力への危機感、金権腐敗と党利党略に終始する政党政治への不信感などがあった。目指したのは「昭和維新」だった………(2016年2月26日)<記事全文>


【下野新聞】<雷鳴抄>
■二・二六事件から80年 


宇都宮中央女子高の東側にかつて陸軍歩兵第59連隊があった。連隊長としてシベリア出兵を率いた松尾伝蔵(まつおでんぞう)は80年前の今朝、時の首相岡田啓介(おかだけいすけ)の身代わりとなり、官邸で凶弾に倒れた▼二・二六事件。陸軍の青年将校が企てたクーデターは失敗したが、軍部が国政への影響力を拡大する契機となる。敗戦の9年前だ▼予備役となり、地元の福井市議などを務めた松尾は、義兄の岡田が首相になると、社会の不穏な空気を察して上京。岡田のボディーガードとして寝食を共にした▼「いつ凶徒が襲うとも、俺が寝ている所を越えなければ、総理を襲うことはできない」と語っていた松尾の文字通りの献身で、岡田は難を逃れた。後に近衛文麿(このえふみまろ)らと敗戦処理を語り合い、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)終戦内閣の成立にも尽力し「最後の重臣」と称される▼松尾の母校、福井市旭小学校に胸像がある。………(2016年2月26日)<記事全文>


【信濃毎日新聞】<斜面>
■日本は戦争と破滅の道に突き進んだ 


声を潜めて立ち話をする大人たちに、ただならぬ気配を感じた。土蔵に立て掛けた茅(かや)の陰に隠れるようにして耳をそばだてているうち胸騒ぎを覚えた―。白馬村の民俗・日本思想史家、田中欣一さんの記憶だ

   ◆

1936(昭和11)年、7歳の時である。2月27日夕刻、雪に覆われた村に新聞が届いた。記事は難しくて読めなかったが、大人たちの会話には「アンサツ(暗殺)」が何度か出てきた。陸軍の皇道派青年将校らによる「二・二六事件」だったと後に知る

   ◆

中信地区の生活情報紙、松本平タウン情報に連載中の「ある少年の昭和史」に記した。幼少時代は「暗殺史」が編めるほど起きた、と。二・二六事件では高橋是清蔵相らが殺害された。その6年前に浜口雄幸首相が狙撃され翌年死亡、4年前の5月15日には犬養毅首相が射殺された

   ◆

二・二六事件以降、軍部はテロ再発の恐れをちらつかせながら政治や経済を動かす。外交官出身の広田弘毅内閣は、現役軍人でなければ陸軍、海軍の大臣になれない制度を復活させた。軍部独走を許す要因の一つになり日本は戦争と破滅の道に突き進んだ ………(2016年2月26日)<記事全文>


【山陽新聞】<適一滴>
■〈今はもう此(こ)の世にいらっしゃらないお父様(さま)ですけれど〉 


 〈今はもう此(こ)の世にいらっしゃらないお父様(さま)ですけれど〉。古い作文はそんな書き出しで始まる。いつも膝の上でかわいがってもらった。毎朝2人で散歩して美しい花を摘んだ。病気の時は枕元で本を読んでくださった。思い出がいくつもあふれてくる▼年始客で華やぐその年の正月。父は「これが一番末(の娘)で、なかなかおりこうなんですよ」と笑いながら自分を紹介した。〈(恥ずかしくて)いやになったけれど、今思えばありがたく〉と、9歳の少女は書いている▼「お父様の思出(おもいで)」と題された作文の日付は1936年5月30日。その3カ月前、少女は父が凶弾に倒れるのを目の前で見た。兵士たちの怒号が飛び交い、父と一緒に寝ていた部屋は血に染まった▼陸軍の青年将校がクーデターを企てた二・二六事件。以後、軍部は政治への介入を強め、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでいく▼陸軍大将だった父の死の理由を少女が知るよしもなかった。だが人の命のもろさ、はかなさは幼い心に焼き付けられた ………(2016年2月26日)><記事全文>


2016/02/26 11:01

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