【原爆・反戦企画】『平和への五線譜』 終戦から64年。平和への思いをうたい上げた5人の歌手の物語をつづる
「一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと私は書く」。1974年8月、猛暑の広島市で開かれた第1回広島平和音楽祭。国民的歌手美空(みそら)ひばりの低く力のある歌声が会場に響き渡った。
初めて披露した「一本の鉛筆」。ひばりの膨大なレパートリーに、この反戦歌があることは意外と知られていない。

愛する人を奪われた悲しみと、平和への願い。「モデルは特定の誰かというより、当時何万人といたのではないか」。日本コロムビア(現コロムビアミュージックエンタテインメント)の担当ディレクターだった森啓(もり・あきら)(67)は振り返る。
ひばりは父親が徴兵され、子や家業を守り苦労する母親の背中を見て育った。防空壕(ごう)から燃え上がる横浜も見た。「広島から平和のメッセージを発信する音楽祭。ひばりさんは乗ってくると思った」と森は語る。
戦争体験が心に強く刻まれていたのだろう。音楽祭のリハーサルで「冷房のある控室にどうぞ」と勧められ「広島の人たちは、もっと熱かったでしょうね」とつぶやいた。
「幼かったわたしにもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません」。本番のステージで「いばらの道が続こうと平和のために我歌う」と宣言した。
「『あれほどの歌手に苦労は分からないだろう』という声もあったが、歌い終わる時には、批判は全部吹っ飛んでいた」と付き人だった関口範子(せきぐち・のりこ)(69)は話す。
ひばりは、長男加藤和也(かとう・かずや)(37)が小学生のころ、こう語った。「和也が大人になっておじいさんになっても、日本の国に戦争が起きないようにと、いつも考えています」。当時の肉声の録音は今も残る。
87年、大腿(だいたい)骨骨頭壊死(えし)と肝臓病で入院。翌年7月、第15回音楽祭に出演した。「休ませたいなと思った。でもああ、受けるんだと。特別な思い入れがあったのかもしれない」。付き添った和也は振り返る。
ベッドを楽屋に持ち込み「一本の鉛筆」を皮切りに笑顔で7曲を歌いきり、舞台を降りた。89年6月、52歳で世を去った。
声高に戦争や平和を語ることはなかったひばりが「大切な歌」と紹介した曲。和也は言う。「時代を超えて突き刺さる。いろんな人に受け継いでほしい」(敬称略)
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戦争は多くの人の命と尊厳を奪い続けてきた。原爆の犠牲者や従軍慰安婦、異国の戦地の住民―。悲惨な現実を前に、平和への思いをうたい上げた人々の姿を描いた。=共同通信
子どもたちが声を上げて駆け回り、お年寄りがベンチでたたずむ。2003年秋の昼下がりの公園。傍らのベビーカーに横たわる赤ちゃんの瞳に青い空が映る。ふと上を仰ぎ見た。「こういう状況で爆弾が落ちてきたりするわけやなあ」
ロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」のリーダー中川敬(なかがわ・たかし)(43)の脳裏に、演奏活動で訪れた独立直後の東ティモールや、フィリピンのスラム街に住む子どもたちの笑顔がよぎった。

日本は憲法9条との整合性の問題をはらんだまま自衛隊のイラク派遣に踏み切ろうとしていたが、日本の街中は平和そのもの。戦争にリアリティーはなかった。「確かにおれらは“被害者としての戦争”を知らない世代。でもこれって戦時やろ?」。強い違和感が心にくすぶった。
そのころ、「極東戦線異状なし!?」が生まれる。散歩しながらの鼻歌がメロディーになり、言葉が口をついて出た。「この戦争をやめさせろ」「今も子供らが/虫けらみたいに『ママ』と叫んで死んでいく」。疾走感のある曲調に反戦的な歌詞が自然に乗った。
「歌詞がここまでストレートでいいんかな」。いつもは最終的に書きかえるが、この時はなぜかそのまま残った。自分でも戸惑い、そして分かった。「これが今こそ紡ぎたい詩(うた)そのものだ」と。それからはこの曲を歌うことが自分に課した“終わらない宿題”となる。
完成してすぐにライブで演奏。ロックバンドの「反戦声明」のようなプロテストソング(政治的抗議を込めた歌)として、反響を呼んだ。
曲作りだけで胸の痛みは収まらなかった。「イラクで女性や子どもが殺されてる。なんで音楽人は声あげへんのや」。軍事力行使に反対するミュージシャンや音楽ファンで、音楽や政治に関する情報を交換する「非戦音楽人会議」も立ち上げた。
今日も小さなライブハウスに、子どもたちから車いすのファンまで詰め掛ける。戦争は人災だから止められる―。メンバーは阪神・淡路大震災直後の被災地で、拡声器や太鼓を手に演奏した経験を胸に歌う。「さあ目を閉じて 感じてみよう あの戦場を」(敬称略)=共同通信
「極東戦線異状なし!?」はOnGenで試聴、ダウンロード可能です

開けてちょうだい たたくのはあたし(中略)こわがらないで 見えないあたしを―。
広島に投下された原爆の劫火(ごうか)に焼かれ、人知れず命を落とした7歳の少女。その魂が乗り移ったかのように、歌手元(はじめ)ちとせ(30)は力強く伸びやかな声で「死んだ女の子」を歌い上げた。
元は鹿児島・奄美大島で生まれ、島唄を聞いて育った。薩摩藩の支配下にあった時代、貧しいながらも、仲間とサトウキビ畑で働きながら、美しい夕日を目にする幸せをかみしめたその唄に、憎しみや恨み節はない。
島は、太平洋戦争で激戦場になった沖縄とも異なった。元にとって、戦争はあまりにも遠い場所の出来事だった。
「歌わないか」。所属事務所社長の森川欣信(もりかわ・よしのぶ)(56)に声を掛けられたのは、デビュー前の1998年。しかし、焼かれて灰になった少女が戸をたたき、炎が子どもを焼かないように、甘いあめ玉がしゃぶれるようにと願う歌詞には、恐ろしさしか感じなかった。「魂が乗っていない」。デモテープはお蔵入りした。
4年後、広島の原爆資料館を訪れ、衝撃を受ける。「忘れたい思いなのに、残してくれてありがとう」。2005年に娘を出産し、「子どもに伝えたい」との思いも芽生えた。曲との出会いから8年、初回版限定で収録したアルバム「ハナダイロ」をリリースした。
「死んだ女の子」の詩は、トルコ人のナジム・ヒクメットが54年前に書き、文学者の中本信幸(なかもと・のぶゆき)(77)が翻訳した。
作曲した指揮者の外山雄三(とやま・ゆうぞう)(78)は中学生の時、東京大空襲を経験。低空で焼夷(しょうい)弾を落とす米軍機の兵士の顔や、トラックに焼死体が積まれる光景を鮮明に覚えている。一瞬で未来を奪われた広島や長崎の同年代に思いをはせずにはいられなかった。
その後、歌は合唱用に編曲され、独り歩きを始める。小学生だった森川はコンクールで歌い、以来、忘れられなかった。
元の歌は坂本龍一(さかもと・りゅういち)(57)が編曲。出産から復帰後初めて歌う姿を見せたのが05年8月6日。原爆ドーム前からの生中継は、国内外で大きな反響を呼んだ。
元にとって平和は「今、生きていられること」。毎年、夏になるとこの曲を何度も聴き、歌う。
アルバムのタイトルになった縹(はなだ)色は、薄いあい色。平和や調和を意味し、大気や水温の微妙な加減で表情が変わる故郷の海のイメージに重なる。
元は語る。「自分が歌うことで誰かが何かを感じ、変わっていく。そんな希望を持ち続けたい」(敬称略)=共同通信
4月の夜、ロック歌手曽我部恵一(そかべ・けいいち)(37)は、都心の駅前で若いメンバーと円陣を組み、気勢を上げた。「どこかの爆弾があの子を襲う夜」「すべてを奪っていく だれかの何かのために」。新曲「永い夜」の〝叫び〟は夜空に吸い込まれた。
雨でぬれた自宅のベランダから、2001年9月の米中枢同時テロ直後の悲嘆に暮れるニューヨークの街に思いをはせ、「戦争にはちょっと反対さ」とつぶやくように「ギター」を弾き語ってほぼ8年がたっていた。

敬愛するジョン・レノンは「イマジン」で、天国も地獄もなく、宗教も国もない世界を描いた。同時テロは「こうあってほしいと望む理想の世界に自分たちはいない」ことを思い知らせた。
ベビーカーに長女を乗せて洋書店をめぐり、自宅に戻ると、アフガニスタン攻撃に突き進む様子を映したニュースがテレビで流れていた。自分は部屋でギターを弾いている―。「ギター」の歌詞はそんな光景を描く。
05年から新たにバンドを組んだ。世界ではいまだ紛争や緊張が絶えず、報復の連鎖は続く。「永い夜」では、自分たちの力が何も及ばないことへの怒り、不満を表した。どれだけあがいても「戦争はたぶんなくならないだろう」と確信する。
「平和って何? 大人が考えた概念だよ」。自分の曲も反戦歌と受け止めてほしくない。正論を振りかざす平和運動は「ある時、『戦争しよう』にすり変わらないか」と心配になるほどだ。
ただ、住み慣れた東京・下北沢に大型道路建設計画が持ち上がると、住民の反対活動に加わった。デモに現実感は持てない。でも、自分にとって身近で大切なことにはかかわっていたかった。
「天気がいいと気持ちいいし、子どもが殺されている現実は悲しい」。曽我部の表現は、生活の中の感動や喜び、心の痛みには驚くほどストレートだ。人間の負の側面をクールに言い切る一方で、そこから逃れるための知性や愛も信じて疑わない。
戦争や平和を全く歌わないミュージシャンも多いが、曽我部は違う。「僕は感じたことは何でも歌う。破壊や戦争は、自分の生活で一番大事な問題だからね」(敬称略)=共同通信

終戦から2年ほどたった長崎市。学校の帰り道に貧しい家が並ぶ。「ちょっとちょっと。『いもあめ』あげるからうち寄っていかない?」。当時小学6年生だった歌手の美輪明宏(みわ・あきひろ)(74)は、友人の家が営む遊郭で見かけた女性の部屋に、突然招き入れられた。
女性は30歳前後の元従軍慰安婦。下働きをしていた遊郭では、女郎にいじめられていた。「あの人はねぇ…」。聞こえよがしな悪口や笑い声を背に、やつれた顔で玄関のふき掃除を続ける姿が印象的だった。
誰かに聞いてほしくてたまらなかったのだろう。女性は涙を流し、せきを切ったように語り出した―。家が貧しく遊郭に売られたが戦争で閉鎖。いい仕事があると誘われ、満州に行くと従軍慰安婦にされた。戦後、村に帰れば親せきに「面汚し」とののしられ再び家を出た…。ほのかに甘い「いもあめ」をほおばり、とめどない話を聞いた。
数年後、美輪はシャンソン歌手として華々しくデビュー。貧しい炭鉱町で歌ったのを機に、「財産も名誉も持たない人々に歌を」と、20代前半で戦争や貧困をテーマに自ら作詞作曲する。
きらびやかな衣装を脱ぎ、ノーメークの素顔とかすりの着物やワイシャツ一枚で歌い始めると、人気は急落。不遇の時代に、いもあめをくれた女性のやつれた顔を思い「祖国と女達」を作った。
「荒れはてた肌に やせこけた頰(ほお)/今日も覚悟の最後の化粧 バンザイ バンザイ」。戦場で死のふちをさまよった揚げ句、戦後は勲章の代わりにつばをかけられ、苦しみ続ける従軍慰安婦らの姿を生々しく描いた。
物語調の歌い回しは、恨み万感を込めて大日本帝国万歳、と唱える女性らが迫り来るような錯覚を起こさせ、聴く者を圧倒した。
社会派歌手としてテレビでも脚光を浴びたが、「祖国と女達」が放送されたのはたった2回。「また歌いたい」との申し出も、局に断られた。そんな時、放送を見た元慰安婦の女性から電話があった。「私の悔しさと恨めしさは一生誰にも分かってもらえないと思っていた。代弁してもらってやっと成仏できる」
自身も戦争への恨みは尽きない。10歳の時に長崎市で被爆。脱毛や貧血に悩まされた。戦争を再び起こさせない使命を負っていると感じる。
今年は、秋の音楽会で久しぶりに「祖国と女達」を歌う。「憲法9条改正なんてばかなことをさせないために。亡くなった慰安婦らの供養にもなるんです」(敬称略)=共同通信(完)
◎西日本新聞の連載「64年目の肖像 ナガサキ・被爆者」はこちら


日本人でも反戦歌を歌ってたんですね。それぞれ独自の考え方が分かっておもしろかったです。
投稿者 匿名 : 2009年08月15日 20:26