日本はどこへ 錯誤の20年-普天間交渉

暴行事件で覚醒 日本政府の沖縄放置

  1996年、米軍普天間飛行場の返還合意を発表する橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使の記者会見と、95年米兵による沖縄の少女暴行事件に抗議する人々を組み合わせたコラージュ

 1996年、米軍普天間飛行場の返還合意を発表する橋本龍太郎首相とモンデール駐日米大使の記者会見と、95年米兵による沖縄の少女暴行事件に抗議する人々を組み合わせたコラージュ

 自民党総裁の橋本龍太郎が、社会党(現・社民党)の村山富市から首相の座を「禅譲」される形で新政権を発足させて間もない1996年2月。外務省北米局審議官の田中均が防衛庁(現・防衛省)高官とともに首相官邸に呼ばれた。
 「首脳会談では普天間を出そうと思うけど、どうだろうか」。米西海岸サンタモニカでの米大統領クリントンとの初会談を目前に控えた橋本は、田中を面食らわせた。
 「僕らは即座に反対した。『(事務方は米軍基地の整理・縮小を)日米の共同作業としてやっているのに、何の根回しもなく、いきなり普天間飛行場返還はないだろう。突然トップレベルで持ち出すべきではない』と」
 田中が今は亡き首相との15年前のやりとりを回想する。田中は翌日、再度官邸へ。橋本は「君らの言う通りだ。普天間は出さない」と田中らの進言に従う意向を示した。

四半世紀のツケ

 橋本はこれ以前に沖縄県知事の大田昌秀と会談。大田からは、市街地に隣接する米海兵隊の普天間飛行場(同県宜野湾市)の返還を クリントンに打診するよう求められていた。

 以降、同月23日にクリントンとの会談に臨む橋本の脳裏には「普天間」の3文字が深く刻まれる。当時の外務省北米局長、折田正樹が振り返る。

 「『知事から普天間について言われたが、クリントンに具体名を挙げて返還を求めるのはいかがなものか』と首相から何回も聞かれた。僕は『(移設先が)決まっているならともかく、何の見通しもなく、ただ返せと言うのは簡単なことではないですよ』と助言した」

 事務方の進言を聞き入れたはずの橋本だったが、会談のため羽田から米国に向かう専用機の中でも「迷っている。君はどう思う」と複雑な心中を折田に吐露したという。

 橋本をここまで動かしたのは、半年前に沖縄で起こった忌まわしい出来事だった。95年9月4日の米海兵隊員による沖縄少女暴行事件だ。長年堆積し続けた沖縄の憤怒が一気に爆発、それまで思考停止状態だった政府を覚醒させた。

 田中は明言する。「政府が沖縄にある米軍基地の縮小に取り組んでこなかったことは明らか。そのツケが来たのが95年9月だった」

 沖縄の本土復帰は72年。その後、80年代に「新冷戦」が訪れ、冷戦終結直後には湾岸戦争、さらに北朝鮮の核危機が発生。「なかなか基地縮小という概念に至らなかったのが実態」(田中)で、返還後の沖縄は四半世紀近く放置され続けた。

利権錯綜し迷走

 橋本は放置状態解消の象徴を普天間返還に求めた。サンタモニカの会談に同席した折田によると、「沖縄のことで何か言いたいことは」と水を向けたクリントンに対し、橋本は普天間返還をやんわりと切り出した。

 以降、田中を中心に対米交渉が進み、約50日後の返還合意に至る。田中によると、県外移設こそ検討しなかったが、負担軽減実現のため、代替施設には「ヘリパッドに毛が生えたような小さな施設」が想定されていた。

 しかしその後、既得権益を死守したい海兵隊や新規工事受注をもくろむ本土のゼネコン、下請けとなる地元業者の利権と思惑が錯綜(さくそう)。「途中から滑走路の距離を長くしようなどと(代替施設構想が)どんどん膨らんでいった」と田中は明かす。

 「もっと早くやるべきだった…」。「解」を見つけられない菅政権の迷走を念頭に、田中は大きなため息をついた。(敬称略、肩書は当時、共同通信=太田昌克)