今春、東京国立博物館で開催された展覧会「『Story of…』カルティエ クリエイション」。指輪、ティアラ、腕時計。高級ブランド「カルティエ」の歴史を振り返る約250点のきらびやかな宝飾品が並ぶ。会場を巡ると、最後に異質な部屋が現れた。
白一色の部屋にあるのは、ガラス製のつぼといすだけ。そんなシンプルな空間を満たすのは、澄み切った香り。展覧会を監修したデザイナー、吉岡徳仁(よしおか・とくじん)さん(42)が、カルティエをイメージして特別調合させた香りをつぼに入れて〝展示〟した。その仕掛けについて、吉岡さんは「香りとともにこの展覧会を記憶してほしかった」と語る。
![]()
「無臭社会化する日本に警鐘を鳴らす、意欲的な試みだ」。常葉学園大(静岡市)で科学教育を教える小田切真(おだぎり・まこと)教授(48)はそう展覧会を評した。無臭社会化―。それを裏付けるように、消臭剤や脱臭剤などの市場規模は拡大を続ける。ある調査会社によると、2001年度に約910億円だった市場は、05年度に1千億円を突破。同教授が、女子学生に日常使う化粧品について聞いたアンケートでも、ほとんどの学生が香りのある商品を敬遠し「無香」や「微香」を好むと回答した。
無臭化は日本人の清潔志向を表すともされるが、小田切教授は「日本人、特に子どもに悪影響が出ている」と指摘する。
「におい」を教材とした科学教室で、ホットケーキが焼ける時など「食べごろのにおい」や「おいしそうなにおい」が分からない子どもが、年々増えているのを実感。また、使用する食べ物や教材のにおいをかがず、すぐに口に入れようとする子どもも目立つという。


「よいにおいや危険なにおい…。言語化しにくいにおいを、それに伴う体験とセットで記憶することで人は危険を回避してきた。生き物として必要な能力を失っている」。そう危惧(きぐ)する小田切教授は、無臭化が子どもたちの感性も貧しくしていると感じている。「多様なにおいを知り、受け入れることは、他者を理解することにもつながる。それが欠けた子どもは、異質なものを排除することしかできない」
「どんなにおいがする?」。兵庫県尼崎市の「立花愛の園幼稚園」で保育士が子どもたちに声を掛けた。春植えの野菜を収穫した園児が、元気な返事を返す。キュウリを折った男の子は「甘い」。ゴーヤーの男の子は「苦そう」と顔をしかめる。ナスを持った女の子は何度も鼻を近づけ、残念そうに「においしない」
![]()
同園では04年度から、園児が畑で野菜を育てている。植える野菜の選定に始まり、雑草取りや肥料やり、収穫まで、
主役は園児。除草剤や化学肥料は使わないため、手で雑草を抜き、鶏ふんの肥料をまく。「鶏ふんは最初こそ嫌がりますが、2度目からはまったく平気」と浜名浩(はまな・ひろし)園長(49)。「ふんのおかげで野菜が大きくなることに気づくと、嫌なにおいでも受け入れられるのでしょう」
土のにおい、草のにおい、雨のにおい、風のにおい…。園児たちは畑で毎日違うさまざまなにおいと出合う。「その体験が子どもの心に化学変化を起こし、豊かにするのです」と浜名園長。
「一緒に食べよ」。キュウリを折った男の子が、女の子に半分を手渡した。「おいしいね」。二つの笑顔が弾けた。
![]()
社会の情報化とともに、生物としての人間はただ衰えていくのだろうか。生来の情報処理能力である“感覚”を再び、そして新たに手に入れようとする現場を追った。(榎並秀嗣共同通信記者)


