「手応えがある。『野母(のも)んあじ』ばい」。牧裕貴(まき・ひろたか)さん(39)は、指先の感触を確かめながら釣り糸を手繰る。針に食い付いたアジが、初夏の日差しに身を光らせて宙を舞う。手で触れずに針から離し、素早くいけすに移す。
海岸線が入り組み、沖合に好漁場が広がる長崎半島の先端、長崎市野母崎(のもざき)地区。漁師仲間から「釣れとるよ」と連絡が入り、向かった先は沖合5キロの天草灘。うねりによる船体の激しい揺れがようやく収まり、いかりを打って制止させると大物が掛かり始めた。
体長26センチ、重さ300~500グラムのものだけが、方言で野母崎のアジを意味するブランド名「野母んあじ」で売ることを許される。大切に扱われ身の傷みがないため、高級料亭の評価も高い。午前の釣果は11尾で、浜値は1万円を付けた。
牧さんは、高齢化や後継者不足に悩む野母崎三和漁協が2003年に募集を始めた研修生として、05年に移住した。1


年後に200万円で4トン弱の中古船を購入して独立。「樺島一本釣振興会」に所属する。会員15人のうち6人は研修生出身で、九州や関東から来た30~40代。リストラを経験した人もいる。
牧さんは北九州市生まれ。父に連れられての魚釣りや素潜りが大好きな少年だった。島根大時代は陶芸家にあこがれた。福岡市の食肉販売会社に就職したが、自分の力だけでは道を切り開けない会社組織に違和感を覚える。社員が起こした食肉産地偽装事件が全国ニュースとなり、業績は悪化、給料も激減した。
入社10年を控えたころ、自転車に乗っていて久しぶりにキンモクセイの香りを感じた。「自然のある場所で、自信を持って生きる姿を見せたい」。生後間もない娘の寝顔を見て思った。妻節子(せつこ)さん(39)は夫の「漁師になりたい」という言葉に二つ返事で賛成した。
04年、隠岐島の巻き網漁業会社で再出発を期す。隠岐は大学時代にキャンプに出掛けた思い出の地。しかし、待っていたのは過酷な現実。怒号が飛ぶ暗闇の中、ベルの合図に合わせ集団でひたすら網を手繰る。4日で体重が8キロ落ちた。「おれは機械の代わりか」とむなしさが募る。地元の人との触れ合いも少ない。ワイヤに指が巻き込まれたり、倒れたクレーンで腕を折ったりする仲間がいた。夢に描いた独立した漁師にはなれないと感じた。1年続かなかった。
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10年で一人前と言われる一本釣り漁師として「よちよち歩き」を始めた牧さん。手取りは200万円程度だが、歯科衛生士の妻もパートに出ており「ぜいたくをしなければやっていける」。漁具の扱いや風、潮の読み方など日々勉強で「実力がそのまま結果となる」仕事はやりがいがある。乱獲による資源減少で環境は厳しいが、収入を増やそうと「他の漁法も学び幅を広げたい」と意気込む。地元のベテラン漁師小川一利(おがわ・かずとし)さん(57)も「息子に継げと言えなかっ

た仕事。ものになるか心配だったが期待以上だ」と目を細める。
漁の後、漁師小屋で地元、移住者の区別なく酌み交わす時間が楽しい。研修生のころ、節子さんがバスで1時間半の市中心部に勤めに出て家計を支え、近所の人たちは「子どもを見てあげる」と言ってくれた。研修生出身の仲間と特産魚介類のPRや漁業資源回復の活動に汗を流すのは「受け入れてくれた地域に恩返ししたい」からだ。
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激動する時代の中、「仕事」のスタイルを思い切って変える人々がいる。どうやって自分の可能性を発揮し、社会とつながるのか。さまざまな働き方を追った。 (藤田康文共同通信記者)


