「ペンキの仕事はなくならない。不況でもね」。東京・葛飾に住むフィリピン人の塗装職人ロサウロ・アシアさん(52)は、金融危機後に吹き荒れた雇用不安もどこ吹く風だ。月収は平均二十六万円。不法滞在者として十六年間、ひっそり暮らしながら親方にペンキ塗りの技術を教わった。在留特別許可を得た今それが生きている。
千葉県浦安市のマンションのリフォーム工事現場。日本人の職人に交じり、外壁の汚れを水と薬品で洗う。塗装の下地作りに欠かせない作業。顔にしぶきが降りかかる。
作業を見つめる日本人の社長(67)は「冬は寒いし夏は暑い、危険もあるけど、こういう仕事のほうがまじめに働けば生き残れる。技術を磨けば給料も上がる」と話す。
船員だった一九九〇年に来日。治安の良さが気に入り、オーバーステイのまま妻と長女を呼び、長男、次男、次女が生まれた。「子どもたちの人生は日本で始まった。その幸せを守りたい」。入国管理局から強制退去を命じる書類が届くたびに引っ越しを繰り返した。
支払いが少ない仕事も嫌がらず引き受けた。最初に覚えたのは、塗装面の汚れや鉄さびを金属の刃で削り取り、粉じんで口の中が真っ黒になる「ケレン」。外国人に押しつけられ


がちだが、耐えた。「壁は何のネタ使いますか」「Nの50」。今ではもう親方が色番号を言えば、即座に塗料を選び出して塗り始める。
「もらったものは人にあげたい」と、教わってきた技を日本人の若者に伝えた。「顔にスキンクリームを塗っておきな。ペンキが付いても水で落ちるよ」。「若い子は汚れたまま電車に乗れないからね」との気遣いだ。付き合いの長い塗装職人(62)は「次の世代に伝えなくちゃいけない技術がある。それを彼に担ってほしい」と話す。
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ロサウロさん一家に在留特別許可が出たのは二〇〇六年一月。長女ロサリンさん(21)は高校卒業後、若者文化をリードする東京・渋谷のファッションビル「109」で働く。妻のカロリンさん(45)は今年二月にヘルパー二級の資格を取得、四月から介護現場に。それぞれ日本社会の中に居場所を見つけつつある。
かつてロサウロさんが働いた建設会社の伊藤清孝(いとう・せいこう)社長(47)は「単純労働でも技術を基準に在留を認めてほしい。いつかそういう外国人が日本を救う時が来る」と話す。
日本は一九九五年をピークに生産年齢人口が減少。二〇五五年には四千五百九十五万人と、現在の約半分になると予想される。
「四日間、食べ物なかったね。寒いね、すごい寂しいね」。日系三世のブラジル人女性アンドレア・タケウチさん(30)は、シェアしていたアパートをブラジル人の友人に追い出され、駅で一人過ごした夜の心細さをつたない日本語で語った。
働いていた愛知県知多市の食品工場で二月、派遣労働の打ち切りを突然通告され、収入が途絶えた上に、ホームレスになった。「お金ないと、友だちなくなるね」。サンパウロの貧しい家庭で育ち、病気の両親は十分な治療も受けられずに亡くなった。ブラジルに弟が二人いるが、それぞれ家庭があり頼れない。
日系人だから自由に働ける「定住者」の在留資格を持つ。来日から四年たつが日本語は不自由なまま。ベルトコンベヤーに流れる自動車やパチンコ台の部品を検査する作業場を転々としてきた。
金融危機後は仕事がなく、やっと見つかったのが食品工場への派遣。夜中に立ちっぱなしで、コンビニ向けの弁当におかずを詰め込む作業だったが十日目で切られた。衣服やタオルを詰め込んだバッグ二つだけを持って愛知県一宮市内のシェルターに転がり込んだ。
今はポルトガル語のフリーペーパーをめくり仕事を探す。介護の求人に目がとまった。「これ、したいね。でも日本語いるよね。わたし、無理ね」。ため息をつく。
シェルターを運営する「のわみ相談所」の林隆春(はやし・たかはる)代表は「この社会は日本語ができないとはじき出される。派遣労働は自分で考え働く仕組みになってないし、いくら頑張っても技能は身に着かない」と話す。
「一九九〇年代は理念のないまま門戸を広げてしまった」。二月末、名古屋市で開かれたシンポジウム。日本経団連名誉会長でトヨタ自動車の奥田碩(おくだ・ひろし)相談役が講演し、日系人の大量流入を引き起こした九〇年の入管難民法改正によるひずみを認めた。一方で「一時の不況でも施策は変えてはいけない」と語り、外国人受け入れは経済界の要請でもあると強調した。
ロサウロさんは、塗装会社の社長になることを夢見ている。そしてアンドレアさんはシェルターの中で、使い古された一冊の日本語の教科書をもらって勉強を始めた。
少子と超高齢化が進む日本社会で、存在感が高まる一方の在日外国人。その受け入れは、労働や教育の現場に後戻りのできない変化を生みつつある。来るべき「移民国家」の足音は、わたしたちに従来の“日本人”像の転換を迫っている。(若松亮太共同通信記者)


