「アンカレジに行くのはどうでしょう」。少し考えてから彼は言った。
津田直(つだ・なお)さん(32)は旅を重ねてとらえた雄大な風景を、独特の感性で写真集や展覧会に編み直し、国際的に注目される若手写真家。その旅の息づかいを知りたいと同行を頼むと、彼は米国アラスカ州の地名を挙げた。
アンカレジ空港。五歳のとき、アイルランドに赴任中だった祖父を訪ねるため、家族でここに降り立った。「このクマだったかな」。ロビーにある古びたグリズリーのはく製が、記憶に残っている。初めての「世界」だった。「あの時から、僕は“外れ始めた”のかもしれない」。その地点に一度、立ち戻ってみたいと思っていた。
神戸市出身の津田さんは、小学校四年生のとき、学校を辞めた。「不登校」のレッテルを張られたが「自分にはほかにやるべきことがある」と強く思った。「こんな感じです」。ノートに水平の線と、その左端から右上に伸びていくもう一本の線を引きながら言う。「行方も分からず外れ始めた、この角度と速度のままで、僕はずっと生きてきた気がするんです」
アンカレジ近郊の渓谷に分け入る。写真家はそのきゃしゃな体つきから想像できないほどタフだ。「小さいときから山に登ってるからかな」。近くの摩耶山に登るのが朝の日課だった。一緒になる老人たちと話し込んでは、学校に遅刻してしかられた。「でもお年寄りの昔話や戦争体験を聞くことが、僕にとっては大切な授業だったんです」
その姿は、そのまま今に重なる。作品集「SMOKE LINE」の旅では、モロッコの詩人に砂漠への道を問い、モンゴルの呪術(じゅじゅつ)師に「目に見えない世界」の見方を習った。無名の賢者に出会うまで、感覚を研ぎ澄ませて出会いを重ねていく。「気持ちが向いた方向へ、同時に体が動くかどうか。学校を辞めて、無人の道を歩むために僕は、その反射神経を鍛えるしかなかった」


「この写真を見る者は、この水辺に立ちたい、この山頂に立ちたいと願う」。作家の池沢夏樹さんは昨年の「津田直展」に寄せた文章に、そう書いた。生きた人間が撮ったと確信させる作品の“体温”に、多くの人が共感を寄せる。インターネットがもたらしたおびただしい情報の海で、置き去りにされる一方の肉体を懐かしむかのように。
フェアバンクスに向かったのは、ホテルで見た古い先住民の写真が気になったからだ。「あの目は一体、何を見ているのだろう」。アラスカ大学フェアバンクス校は、百万枚を超える写真コレクションを持つ。津田さんはイヌピアック族という先住民のポートレートに見入った。民族名の意味は「本当の人間」。
「あの強い目は、世界をガラス越しにでなく、生身で見てい
る目なんでしょうね」。フェアバンクスからアンカレジに戻るアラスカ鉄道の車中で、貨車の扉を開け放ち、氷点下の風を浴びながら津田さんはつぶやいた。
情報というガラスを通さずに、全身でリアルに世界を感じる―。そんな人間の力を未来に伝えることが使命だと今、切実に思う。「僕は世界のどこかで、人の頭の中にある地図を譲り受ける。そしてその地図によって見えた世界を、カメラという翻訳機で翻訳する」
オバマ大統領就任から一週間という日に、短い旅は終わった。まだ熱狂に包まれているはずのその国の辺境で、彼は地面の下に横たわるという、永久凍土のことばかり考えていた。(岩川洋成共同通信記者)


