デザイナー阿部千登勢(あべ・ちとせ)さん(43)には、大切なものが二つある。
一九九七年、約十年間勤めたコムデギャルソンを退社し、長女を出産。半年後、ブランドを立ち上げることを決意した。名前は旧姓から取った「sacai(サカイ)」。「子どもも欲しかったし、仕事もやりたいし」。夢をあきらめるなんて、考えられなかった。
娘のそばで得意のニットを編んだが、一日数時間しかさけない。「ドレスやバッグも含め、たくさんの服はできないけれど、五種類のニットならスペシャルなものができるんじゃないか」。仕事のあり方を変え、今の暮らしの中でできる最善を目指した。同業の夫も背中を押してくれた。
設立から一年たって開いた展示会は、自宅マンションが会場。日当たりの良いリビングにコーヒーの香りが広がり、おもちゃが転がっていた。家族が暮らす気配があるなかに、ベーシックな形にひねりを加えた独特の服が並んでいた。
「有無を言わさずおしゃれ。『見つけた!』と思った」と「ファッションニュース」編集長向千鶴(むこう・ちづる)さん(38)は言う。派手なショーで注目を集める、通常の新作発表に慣れた人たちには新鮮だった。「本当に自宅だった」「お茶を入れてもらった」と楽しい話題に。子育てしながら一人で始めたという「弱点」を魅力に変換したのだ。
向さんは「阿部さんの生き方もあこがれ。家庭があって仕事もするって当たり前なのに、なぜか理想になっているから」と話す。従来型の組織では、女性が働き続けるのにはまだ困難が付きまとう。結婚や出産を望んでも機会を逃す人も

多い。
昨年九月、伊勢丹新宿本店でサカイの期間限定ショップがオープンした。仕掛けたバイヤーの須藤有紀子(すどう・ゆきこ)さん(39)はサカイのファンだが、一般の人がターゲットの百貨店としては賭け。「内心は『大丈夫かな』とびくびくでした」という。
ところが会場には女性たちが駆け付け、限定カーディガン約四百着は即日完売。「やっぱり皆、いいって思ってるんだ…」。こっそり涙ぐんだ。今や海外有名ショップもこの小さなブランドを買い付ける。「デニムにもパーティースタイルにも合う。気負わないのに計算された美しさがある」と須藤さん。 サカイのテーマは「日常の上に成り立つデザイン」だ。阿部さんは「運動会に行ったりお母さん同士で話したり、
パーティーにも顔を出す。日常の中で私が感じることを大事にして、デザインが生まれる」と明かす。「さみしい思いをさせた」と、娘に謝る日もあるが「仕事も同じくらい大事。切り離してはいないんです」。
女優でモデルのりょうさん(36)も、サカイを見つけて以来「好きで」着続けている。りょうさんにとってファッションは、三歳の長男と公園で遊ぶときも、ドラマ収録に臨むときも「その日を楽しむ気持ちにさせてくれる」ものだ。
家庭と両立する仕事は、いわゆる「完ぺき」ではないかもしれない。「でも不完全でマイナスに見えるものを逆に生かせると思う」と阿部さんに共感する。
一人の女性デザイナーの服を通じ、新たな価値観が広がる。ステータスやトレンドの象徴だったファッションから、日常をいとおしみ自己実現していくライフスタイルへ。それはありのままの女性を肯定した、静かでやわらかなルネサンスだ。(中井陽共同通信記者)


