サウジアラビアとクウェートの国境地帯にカフジ油田はある。アラビア石油(東京)が一九六〇年に発見し、「日の丸原油」が初めて産声をあげた。ペルシャ湾の沖合約四十キロの海上にある生産現場は、夏の最高気温が五〇度にも達し、蒸発した汗が体にざらついた白い跡を残す。
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「カフジでは大きなプロジェクトを動かすことができた。自己完結する仕事に達成感があった」。アラ石で環境対策を担当する三田俊一郎(みた・しゅんいちろう)さん(57)は生産施設の技術者として、カフジの砂漠で三回、計十七年半暮らした。
低迷していた原油価格は二〇〇四年ごろから、はっきりと上昇気流に乗った。資源市場への投機資金流入、新興国のエネルギー需要への期待。資源開発ブームが世界に巻き起こった。
資源開発の経験豊富な技術者は世界的に不足しており、高給で引き抜かれる存在になった。
アラ石が持つカフジ油田の権益はサウジ側とクウェート側に分かれていた。政府間交渉などの結果、サウジ側の権益が二〇〇〇年に、クウェート側は〇三年に失効した。
〇八年一月、クウェートとの技術サービス契約も切れ、アラ石はカフジから完全撤退した。生産設備を動かす現地企業が、技術者らに個人契約を持ち掛けてきた。
四十人ほどいた技術者の大半は五十歳代。「技術には自信がある。現場を離れて中途半端に終わりたくない」と語る同僚もいた。

帰国すれば再び現場に出る機会は少ない。定年になれば収入は大幅に下がる。結局、二十人ほどが現地に残る道を選び、アラ石を去った。
三田さんは当時の年収の約二・五倍もの報酬を提示された。だが「カフジに駐在している間はずっと単身赴任だった。日本で家族と過ごす時間が必要だ」と、迷うことなく帰国を決めた。
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カフジで同僚だった坂下卓(さかした・たかし)さん(54)も、油田の産出量や生産能力を調査する技術者として、カフジで通算二十年過ごした。資材の購入、請負業者との契約。「技術以外にもあらゆる仕事をやった」と話す。
アラ石がサウジ側の権益を失うと、現地人幹部が増え、ぎ
くしゃくした雰囲気が漂った。「アラビア人社員の間では、日本人を敬遠する感情が広がった」と、坂下さんは振り返る。
〇八年七月、ニューヨークの原油先物相場は一時一バレル=一四〇ドル台を付けピークに達した。その後は急落し、十二月には一バレル=三〇ドル台まで下がった。米金融危機は原油市場のバブルを打ち砕き、開発ブームにも急ブレーキがかかった。
「日本人技術者の給料は高すぎる」。カフジでは現地人幹部がこう主張し始めたといううわさが、三田さんの耳に聞こえてきた。
会社や政府の支援もなく、市場の波に翻弄(ほんろう)されるかつての仲間たちを思い出すことが増えた。
「技術屋だから、明日にでも海外の現場に出たい気持ちはある。だけど現地に残っている彼らは不安だろうなあ」(小林輝彦共同通信記者)


