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【第17回】「押し付け」事実でない

民権運動の血脈引き継ぐ 草の根、五日市憲法草案

「おからを買ったり、コッペパンやトマトをかじったりして耐えた」と、自身の若い時の困窮を語る東京経済大名誉教授の色川大吉さん=山梨県北杜市(撮影・堀誠)「おからを買ったり、コッペパンやトマトをかじったりして耐えた」と、自身の若い時の困窮を語る東京経済大名誉教授の色川大吉さん=山梨県北杜市(撮影・堀誠)

 4年前の春、安倍晋三首相は、現行憲法について「進駐軍が作った」「私たち自身の手で憲法を作るという精神こそが、新しい時代を切り開く」などと発言、改憲への意欲を強く示した。
 これに対して、東京経済大名誉教授の色川大吉(いろかわ・だいきち)さん(91)は「押し付け憲法というのは、歴史的にも、まったく事実ではない」と反論する。
 敗戦直後の1945年12月、連合国軍総司令部(GHQ)民政局の法律家マイロ・ラウエル中佐らは、日本の学者や評論家で構成する「憲法研究会」が発表した「憲法草案要綱」を高く評価、直ちに英訳するなど現行憲法の土台としたからだ。
 

▽各地で私案起草


五日市憲法草案が見つかった深沢家の土蔵の2階。元専修大教授の新井勝紘さんは「この空気、懐かしい」と深く息を吸った=東京都あきる野市五日市(撮影・堀誠)

 研究会の中心人物だった法制史の専門家、鈴木安蔵は、明治初期の自由民権運動の中、全国各地で活発に起草された私擬憲法(民間有志による憲法私案)を研究した。
 現行憲法の基本的人権に関する条文は、高知県の植木枝盛の私擬憲法などに類似している。色川さんは「自由民権運動家らによる私擬憲法の血脈は、現行憲法に引き継がれている」と指摘する。
 68年夏、色川さんが率いる東京経済大の調査チームは、関東平野最深部の五日市町(現東京都あきる野市)にある、山林地主の深沢(ふかさわ)家の土蔵を開封、「五日市憲法草案」を発見した。同大4年生で調査に参加した元専修大教授の新井勝紘(あらい・かつひろ)さん(72)が回想する。
 「土蔵の2階からは想像を超える資料や書籍が出てきた。竹で編んだ弁当箱のようなものの中に風呂敷で包まれた書類があり、冒頭の文字は日本帝国憲法と読めたので、階下に下ろした」
 1881年に草の根的に起草された私擬憲法の一つだった。204条もあり、言論や思想の自由、人民の政治参加、義務教育を受ける権利、地方自治権の不可侵などが盛り込まれていた。新井さんは「国家や政府は、国民の自由権利を守るためにあると、見事に言い切っている。条文によっては、現行の憲法を先取りしている」と評価する。
 

▽投獄や潜伏

 起草の中心となったのは、仙台藩の下級武士の子として現在の宮城県栗原市に生まれた千葉卓三郎(ちば・たくさぶろう)。戊辰戦争に参戦して敗走、さまざまな学問、宗教、職業を遍歴した。五日市で小学校に当たる勧能学校の教師を務めながら、自由民権思想にのめり込んだ。
 当時の五日市は木材や薪炭の供給源であり、多摩川を通じて都心と直結していた。最新事情に触れていた深沢名生(ふかさわなおまる)・権八(ごんぱち)父子ら五日市の人々は、千葉を温かく迎え入れ、女性を含む青年らと活発に学習会を開いた。
 色川さんは「人権規定が多いのは、千葉の体験から来ていると思う。力のない人民を権力から守るのは『法』しかないという切実な思いがあった」とみる。千葉はギリシャ正教に入信した時期に弾圧され、獄中で鉄鎖につながれたことがある。
 そう語る色川さんは、学徒出陣で海軍航空隊に入隊、多くの戦友を失った。敗戦後は民主商工会の書記の傍ら、日雇い労働。1949年に、渋谷駅前広場で演説中に逮捕、留置されている。逃走して約2年間潜伏した。
 

▽皇后さまが言及

 安倍首相が改憲に意欲を示した2013年。10月20日に皇后さまは79歳の誕生日を迎え、宮内記者会が提出した「1年を振り返って」などの質問に対し文書で回答した。
 「今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます」とした上で、五日市憲法草案について「19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と評価。さらに物故者8人をしのび、その1人に「女性の人権の尊重を新憲法に反映させたベアテ・ゴードンさん」を挙げた。
 天皇・皇后両陛下は、政治的なことには決して言及しない。ただ、両陛下が五日市郷土館を視察したのは12年1月23日で、厳密には「この1年」ではない。新井さんは「深読みすれば、皇后さまの新憲法に対する特別な思いを感じる」という。
 両陛下は、郷土館の特別展示室で足を止めた。皇后さまは、学習会のテーマを集めた「討論題目」について、「(討論の参加者は)おいくつだったのかしら」など、矢継ぎ早に質問。天皇陛下は、小さな文字を熱心に読んだ。20分の想定だった視察は、40分に延びた。
 色川さんは、五日市憲法草案が高く評価されたことを「当日のテレビニュースで知った」という。「(皇后さまは)とてもシャープな人ですね。国民に寄り添っていくことが(皇室が)一番長続きするためにも必要だということを理解している。わが国民は70年、憲法を変えていない。良い物は良い。それが普通の国民の気持ちでしょう」(共同=石井勇人)

帝国憲法の枠組み変えず 日本政府、GHQが改憲案

大日本帝国憲法改正案の修正案を可決した1946年10月7日の衆院本会議
 日本が敗戦を認め、1945年8月に受諾したポツダム宣言は国民意思による平和的政府の樹立や基本的人権尊重など、大日本帝国憲法に反する内容だったが、政府は改憲しようとしなかった。  連合国軍最高司令官のマッカーサーが改憲の必要性を指摘し、政府は改憲の要綱を作成したものの、天皇主権や人権の制限といった、旧来の枠組みは変えなかった。  このため、連合国軍総司令部(GHQ)が民間の憲法研究会案なども参考にしながら、国民主権と象徴天皇制、戦争放棄などを柱とする改憲草案をまとめ、これを基にした大日本帝国憲法改正案が46年6月、帝国議会に提出された。  議会審議では、普通選挙制や生存権などの条項が追加されている。修正案が同年10月、議会で可決され、枢密院も採択。11月3日に日本国憲法として公布され、47年5月3日に施行された。