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(6)「保育園の表現者たち」

生活すべてをアートの心で 希望に満ち生きやすく 

制作する女の子と話す浅羽聡美さん=東京・豊洲のシンフォニア保育園制作する女の子と話す浅羽聡美さん=東京・豊洲のシンフォニア保育園

 小学校の図画工作や中学高校の美術の時間が苦痛だったという人は少なくないだろう。だが中学の美術の教員を経て、いま幼児や障害者のアートに関わる浅羽聡美(あさば・さとみ)さんは「本当は誰もがアーティストなんです」と言い切る。「生活のすべてがアートに貫かれるなら、世の中はもっと生きやすく、希望に満ちたものになるはずです」

 浅羽さんが「保育園の表現者たち」と呼ぶ園児たちのアートから見えてきたものとは―。

 

▽気持ちのまま

 4月、東京・豊洲のシンフォニア保育園。4歳児の「美術」の時間が始まった。浅羽さんは保育室に並んだ鉢植えの花を指して説明する。「きょうのテーマは春の花です。でも絵の具を使わず、代わりに紙を使います」

 園児たちの制作はなかなか始まらない。用意された紙を投げ上げて遊ぶ子もいる。でも浅羽さんも保育士の先生も制作を強制しない。そのうち制作にかかる子が増え、保育室が静かになっていった。

 紙を大量に集めて山にする子もいれば、少しで完成させる子もいる。やり方がいろいろなら、でき上がりもさまざま。時間が過ぎても続けている子が保育士の先生に「もうちょっとやってもいい」と聞く。「あわてなくていいよ」と先生。

 浅羽さんは「大人が絵はこうあるべきだと教え込まなければ、子どもは心が動いたとき、気持ちのままに表現します」と話す。「風景や人や物だけでなく、目に見えないもの、自分の気持ちも自由に表現できるんです」

 公立中の教員だったころ、1年生の4月の授業で「絵が苦手な人は手を挙げて」と言うと、9割の子の手が挙がった。

 シンフォニア保育園での5年間の経験で「子どもが描くことは呼吸することと同じ。本能として備わっていると感じます」と浅羽さん。苦手意識を持たせるのは大人だ。「大人は何かのカタチが描けると褒める。学校では優劣を評価する。でも子どもの表現は未熟なんかじゃない。多くの美術家が行き着きたいと願っている世界があるんです」

 

▽こびない表現

 どこまでも子どもの心と自由な表現を大切にする。お互いの違いを認め、共に生きる。そんな積み重ねは何を生むのか。3月に東京・根津で開かれた「保育園の表現者たち」展で上映された映像がそれを示していた。

 女の子4人が階段で怒鳴り合いを始める。30分続くが先生は止めない。部屋に移ってもけんかは続く。やがて怒鳴り合いは話し合いに。紙を人に見立てて原因を確認し合ううちに、その紙で飛行機を折り始める4人。1人が謝り、みんなで謝り合ってけんかは終わる。

 子どもの表現に触れてきて浅羽さん自身の表現は変わったのか。そう問うと、率直な言葉が返ってきた。「子どもの表現を見ると、子どもっていいなっていうレベルを超えて、絵を描いてきた人間として衝撃を受けます。何に自分は気を使っているのか、人にこびない表現ってなんて気持ちいいんだろうって」(共同通信編集委員・佐々木央)

「これは大根の国です」 内面を共有する喜び 

 シンフォニア保育園では美術の時間の後、浅羽聡美さんと保育士の先生が振り返りの話し合いをする。「大根を描く」の時間の後には、大根らしく描けているかで作品を評価する親がいることが話題になった。そこで浅羽さんは保護者に向けて次の文章を掲示した。

彩色作業に没頭する子どもたち=東京・豊洲のシンフォニア保育園彩色作業に没頭する子どもたち=東京・豊洲のシンフォニア保育園

 「大根らしく描くことが最終目標ではありません。大根を通して、何を感じるかは子どもたち一人一人違います。そっくりに描くのではなく、自分が感じたことを表現するために描いています(中略)『らしく』『きれいに』『上手に』といった既成概念が子どもたちにはありません。柔軟でしなやかな子どもたちの感性が損なわれることなく、このまま自信を持って表現していってほしいと思っています」

 「大根」制作後の子どもたち同士の鑑賞会。外国から来たばかりのA君は日本語があまり話せないが、この日は手を挙げてみんなの前に歩み出た。そして無言で見てほしい部分を指さした。それは墨で描いた格子状の線で、制作中に浅羽さんに「これは窓なんだ」と話していた部分だった。

 浅羽さんがそう説明すると、子どもたちから「ほんとだ、窓がある」「ぼくは中に人がいるのが見えた」「うん、人が立っている」と共感の声が続いた。するとA君は「これは大根の国です」とはっきりと言った。

 浅羽さんも心を動かされた。「絵を通して自分の内面世界を人と共有できる喜びと自信、人が絵を描くことの意味はそこにあるのかもしれません」

美しい絵

 浅羽聡美さんの教員生活は7年。管理的な教育に行き詰まりを感じ、6年目から認知症の人の造形表現活動に取り組むようになった。障害者や不登校の子にも関わる。

 学校で暴れ、自傷を繰り返していた中2女子。最初に会ったとき「自分には感情はない」と話した。怒りも悲しみの感情も分からないと。「では色なら何色」と問い、絵を描いてもらった。全面グレーで淡い色が少し入っていた。デリケートで美しい絵だった。教員としての言葉に限界を感じていたが「描かれたものに対して感じたことは、伝えられると思った」。

 彼女は少しずつ変わっていく。高校にはほとんど休まずに通ったという。

記者ノート「二度とないその時」

 絵がもし、他者とのコミュニケーションの道具であって、明確な内容を示すべきだとしたら、良い絵とは何かは明白だ。しかし白い紙は初めに、他者との間にではなく、自分の前にある。保育園でアートに取り組む子どもたちの姿を見て、そう気づいた。そこには他者の解釈も評価も、それに対する自分の思惑も、入り込む余地はない。
 幼い子の絵に「これ、なあに」と私たちは聞く。けれど浅羽さんは「子どもの二度とない“その時”の表現を、そのまま受け止めたい」と話す。
(文と写真、共同通信編集委員・佐々木央)=2016年4月取材